エゴの洗礼

私たちの誰もが、人生の最初の頃に教え込まれること、それは「お前のままではだめなんだ!」ということです。これは、きっとどんな人でも似たような教えを受けているはずなのです。

その度合いは人によって様々なのですが、本質的には誰もがこのような教え、メッセージを毎日受け取ることになるのです。それが、エゴの洗礼なのです。

そして、そのことが度外れてひどかったり、またその子がとても鋭敏な感性を持っていると、その子のその後の人生は大変悲惨なものとなってしまうのです。

なぜなら、「自分のままではダメだ!」という洗脳が片時も離れないのですから、本人としてはゆったりと安心してはいられなくなってしまうからです。

いつも、このままではダメだ、何とかしないといけないという感覚が常に自分を襲うことになるのです。本人としては、かなり頑張るのですが、何をしても満たされるなどということはあり得ないわけです。

なぜなら、自分のままではダメだという深い思い込みがあるのですから。本人は、ダメな自分から脱出するために、まずありえないような理想的な自分像というものを作るのです。

理性では、そんな人はこの世界に一人もいないと分かってはいるのですが、とりあえずそのような自分になれるようにと頑張るのです。

その一方では、「そのままではダメだ」と言った親に対する抗うことのできない不満な気持ちが、あらゆる形の問題行動となって現れてくるのです。

本人の意識しないところで、そのような問題行動が現れてくるために、それは理性的な本人にとっての罪悪感となってしまうのです。それで、更に自分をダメ出しするようになるのです。

そうやって、負のスパイラルが完成するのです。親に対する不満が問題行動を起こし、それによる罪悪感が自分を責めることで、更に問題行動を加速させるというわけです。

もしもあなたの人生が、何となく闘いだと感じられるなら、このような洗脳が強くあなたの中に残っているということを疑ってみることです。

人生の初期になされたエゴの洗礼は、こうしてあなたの人生を根底から辛いものにさせてしまうのです。とにかく、気づくことです。そうして、必要な癒しを進めていくことです。

目的指向を見直す

誰もが気が付くと、目的指向になっています。何をするにも、それ自体のためにするのではなく、それ以外の何かの目的を達成するためなのです。

目的指向にはまると、大切な今この瞬間を未来のために犠牲にすることになるのです。なぜなら、目的や目標というのは、常に間違いなく未来にのみあるからです。

以前サラリーマンだったころ、とても待遇のいい企業にいたのですが、その分誰もが人一倍働いていたと思うのです。ある同僚の女性が言っていたことを思い出します。

彼女いわく、その日々のストレスを解消するために一年に1,2度大金を払って海外旅行に行くのだと。そしてその資金を溜めるためにも、また過酷な毎日と闘うというわけです。

一体どちらが手段でどちらが目的なのか、本当のところ分からなくなってしまっていたのかもしれません。私たちは、人生に明確な目的や目標を設定することはいいことだと教えられたのです。

何の目標もない、その日暮らしでは人としてダメだと習うのです。だから、まともな精神を持っている人は、誰だって人生に目標を作るようになり、それを目指して日々頑張るのが当り前になってしまったのです。

けれども、「何のために?」というのは、エゴの発想なのです。この社会を作ったのがエゴなのですから、このような刷り込みをされたのも当然なのですね。

こうした大そう正しそうに感じる社会や親の教えを、じっくり見直す必要があるのです。私たちは、どんな目標をクリアしたとしても、決して満たされることはないからです。

そればかりか、大切な今を台無しにしてしまっている可能性が大なのです。生を味わうことこそが、生を生きるということであって、それは過去でも未来でもなく、今この瞬間だけが生と共にいられる唯一のときなのです。

何かを始めると、すぐに目的や目標が出現します。あなたが何かをしていれば、「それ何のためにしてるの?」という問いが誰かからやってくるはずです。

そのとき、これ自体が目的なのだと答えられたら本当に素敵ですね。つまり、手段と目的が一致していることこそが、生を思い切り楽しむ方法だということです。

そして、手段と目的が分離した瞬間に、欲求が発生してしまい、それが私たちの苦悩の根源となるのです。あなたが今していることを、ただ楽しむことができるなら、それ以上に素晴らしいことはありませんね。

独りである、ということ

人は独りで生まれてきて、また最後には独りで死んでいくのですが、その間の人生では多くの人々との関係の上に人生を生きて行くわけです。

けれども、その人生の中でも、本当の自分はやはり独りなのです。どう考えても独りではないとは言えません。自分以外のすべての人は自分ではなく、他人だからですね。

ところが、エゴは誰かとの関係性の中においてのみ、その存在を確固なものとすることができるので、自分が独りだと感じると危機感を覚えるのです。

そうして、すぐにテレビを見たり本を読んだり、誰かと連絡を取ったりするのです。何とかして、気を紛らすことで本来の自分は独りだということを忘れようとするのです。

このままだと、あなたは自分は独りであるということを思い出すこともできずに、エゴにコントロールされた人生を生き続けることになるのです。

社会とはそういう場所なのです。この生き方を続ける限り、あなたの本質が何なのかを知らずに最期を迎えることになってしまいます。

だからもしもできるなら、私は独りになってみたいのです。すべての関係が遮断されたなら、私はきっと孤独の中へと投げ込まれてしまうはずです。それはエゴにとっては、大変な恐怖であり、苦痛なはずです。

独り言が始まるかもしれません。あるいは、植物や自然などを相手に会話をするようになるかもしれません。それもやめて、沈黙することができたなら、エゴは衰弱の一途をたどることになるでしょうね。

社会によって作られた数々の私という仮面、他人によって作られた私という人格、そういった私という人物のすべてが徐々に剥ぎ取られていくのです。

そうして、私は次第に誰でもない、形容することのできないものである本当の自己へと近づいていくのです。完全なる独りとは、個でもなくなるのです。個とは社会があっての個別性だからです。

独りに戻れば、私は全体性へと復活することになるのです。そうなって、初めて社会の中に戻っても、社会に触れずに生きて行けるようになるのでしょうね。

感情をコントロールしようとしない

感情の起伏が激し過ぎて、どうにも自分を制することができなくて困っている、という方がいらっしゃいます。何とか、もう少し穏やかな人生を送りたいということですね。

その気持ちはよく分かります。いつも冷静で感情に流されずに、逆に感情を上手にコントロールできればいいのにと思ってしまったとしても不思議ではありません。

けれども、感情が感情として出てきてしまったからには、それをコントロールするということは不可能なのです。できるとしても、それはコントロールではなくて抑圧するということです。

感情が感情の形となって噴出する前の段階で、それはとても微妙なのでそれを捉えることはなかなか難しいのですが、そのときにそれを見つけてしっかり受け止めることができたなら、それは感情となる代わりに純粋なエネルギーとして残るのです。

そのエネルギーはいいも悪いもない、純粋なものであるため、他のあらゆることに使うことができるものなのです。それができるなら理想ですね。

それ以外に感情をコントロールしようとしてはいけません。一度やってきた感情は、それが如何なるものであったとしても、どれほど自分に都合の悪いものであったとしても、そのままを感じることです。

このブログでは何度も繰り返してお伝えしているとおり、感情は思考を脇に置いてそのままをしっかり味わうことができるなら、必ずその感情のエネルギーは減少していくはずなのです。

思考を割り込ませてしまうと、感情はいくら味わったとしても、すぐに勢力を取り戻してしまうのです。もしも、味わっても味わっても、その感情に悩まされるなら、思考が活動しているということを疑うことです。

感情と思考を完全に切り離すことです。感情はハートで感じるのです。もしも、そのときに思考が活発であれば、その分ハートは閉じてしまうだけでなく、その思考が新たな感情を創り出してしまうのです。

思考はあなたの部分的なものですが、ハートはあなたの全体に関わっているのです。もしも、思考を使わずに感情を味わうことができるなら、あなたは全身全霊でその中に溶けていくはずです。

そのときに、あなたは大きな変容を経験するはずです。クライアントさんの中には、本当に凄まじいくらいにそれを実践された方もいらっしゃいます。いきなり、その人のエネルギーが変わってしまうので、こちらがびっくりするくらいです。

マインドとハートの違い

私たち日本人がごく普通に使う「心」という言葉がありますが、この言葉はどうも不明瞭に使われているような気がします。一方、すでに日本語の一部になっているマインドとハートと言う言葉がありますね。

元々は英語の mind と heart なのですが、この二つの単語と「心」という単語との関係はどうなっているのでしょうか?間違いやすいので、一度整理した方がいいかもしれません。

実は、「心」という言葉は肉体と精神とに分けたときの精神的な部分の総称のように使われるのです。だから、とても広い意味が込められているのです。

一方、マインドとハートはかなり明確に区別されています。マインドとは、頭、つまり思考を意味すると思ってまず間違いありません。

日本語で頭で考えずにハートで感じろ!などという場合に、マインドで考えずに…と使えるわけです。このブログでマインドと言った場合には、思考の束が入っている容器のようなものというニュアンスで使っています。

ごく一般的な本では、心(マインド)のような使い方をしている場合もありますので、要注意ですね。そして、ハートという言葉は、感じる部分であるということです。

つまり、マインドとハートとは互いに相反する両極であるとも言えるのです。その双方に「心」という言葉が当てはまってしまうというのは、日本語というのは何とも悠長ですね。

けれども、これは元々日本人がマインド中心ではなくて、ハートを中心としていた民族だったので、マインドを意味する言葉がなかったということなのかもしれません。

仕方なく、大雑把にマインドを心と訳してしまった人がいたのでしょう。だから残念ですが、私はできるだけ「心」という言葉を使わずに、マインドの方を使うように最近するようになりました。

マインドの中にこそ、架空のエゴが潜んでいるのであって、ハートはたとえエゴがなくなっても、というかエゴが消えてしまえばそれだけ十全にハートが開くはずなのです。

マインドが静まり、ハートが全開になったとき、バックに待機していた本当のあなたが全面に顕現することになるのでしょうね。あなたが死に、生まれ変わるということです。

このブログの可否

かつてある人が言いました。『大澤さん、あんな(こんな)ブログばかり書いていたら、セッションに行こうと思っていた人が、二の足を踏むことになるよ…』って。

心の癒しを求めてHPの内容を読んでくれる人が、ブログの内容を読んだら絶対に変な人だと思われて、やめておいた方がいいということになる、そう言われたのです。

確かに、その人の忠告の意味は丸ごと分かるのです。だからこそ、HPの中身そのものではなくて、ブログという形で書きたいことを書くようにしたのです。

それでも、結局同じなのかもしれませんね。怪しい宗教の類かもしれないと思われるかもしれないし、少し頭が飛んでしまっている人かもと誤解されても仕方ないのかもしれません。

このブログの内容を変に思わずに、読んで下さっている方々も沢山いらっしゃるのですが、大多数の日本の平均的な人たちにとっては、奇抜な内容と受け取られてしまうのでしょうね。

とはいうものの、私がやっている癒しのセッションの目的を変えることはできません。それは、極端にエゴによって飼い慣らされてしまったマインドを、そこそこ平均的なレベルに戻すこと。

そのうえで、瞑想なり何なりによって自分の本質への気づきを得ることなのです。勿論そのときには、あなたというエゴは消滅することになるのでしょう。

残念ですが、私自身のエゴがまだまだ健在なままあるので、当然のことながら偉大な導師のようなことができるはずもないのです。

したがって、私のセッションで協力できることは、エゴの力を弱めていくヘルプでしかありません。その後の、真実へのジャンプは私自身もその途中なのです。

光明を得るということは、一気にやってくるものであって、徐々にそこへと近づいていくようなことではないようなのです。それじゃあ、何にもしなくていいのかというと、勿論そうではありません。

私たちの努力が、直接的に真理へのジャンプを促すことができないというだけで、いつかはその努力こそが邪魔だったと気づくときまで、それは必要なことなのですね。

あ、今思いついたのですが、HPからこのブログへのリンクを外して、代わりにブログランキングに参加するようにした方が、こういった内容に興味を持っている人にもっと読んでもらえるかなと…。

「自己想起」していること

先日、グナという人間に備わっている資質について書いたのですが、その中でラジャス・グナが優勢な人は活動的で、しかも情熱的な資質が表面化するということも書きました。

こうした活動的なエネルギーで満たされている人にとって、毎日時間を設けて静かに瞑想するなどということは、苦手なことだろうと推察します。

同じようなことが子供に対しても当てはまるでしょうね。動いていなければいけない活発な子供を、押さえつけて瞑想しろと言ってもどだい無理なことです。

この子供が静かになるのは、本当に具合が悪いときくらいなのですから。このような活動的でゆったりと落ち着いていることが苦手なラジャス・グナが優勢な人に対しては、どういった瞑想法があるのでしょうか?

それが、「自己想起」なのです。この方法は、過去に多くの導師が弟子に対して与えた技法です。それは、簡単に言えば、何が起きようと常に自分自身へ意識を向け続けるということです。

普段の生活のあらゆる場面において、歩いていても、食事をしていても、たとえ仕事中であろうと、とにかく自分に意識を向けているということです。

ブッダは、自分の呼吸を常に意識し続けるようにと、弟子に対して仕向けていたそうです。常に、息を吸っている、息を吐いているという具合に、それのみを見つめ続けるということです。

私たちは、自分が意識的に生きていると思い込んでいます。そして、睡眠中にのみ、無意識の中へ入り込むのだと。そのように感じているはずですね。

けれども、しっかり覚醒している状態とは、どの瞬間にも100%の力で自己へと注意が向けられているはずなのです。

ということは、私たちの毎日の生活、つまりすぐに外側の事に注意を持っていかれてしまっている状態というのは、真に意識的であるとはいえないのです。

半分覚醒して半分睡眠状態であると言ってもいいかもしれません。しっかり意識を覚醒し続けるためには、相当の持続的な努力が必要だということが分かります。

長い間の悪癖がしみ込んでしまっているので、この自己想起を続けることはそう簡単なことではないはずですが、それでも時間も労力もかからずにできるので、是非試してみることをお勧めします。

私自身も、現在チャレンジ中です。

身体や思考との同化

私たちの苦しみのすべては、同化によって起きてくるのです。その同化にも二種類のものがあって、一つは身体との同化であり、もう一つはマインド(思考)との同化です。

生まれたばかりの赤ちゃんは、在るがままでまだ何とも同化などしていません。だからこそ、自分という個がない状態で生きているのです。

ところが、2~3年経つうちに、周囲からの連続的な刺激によって、まず身体との同化が始まり出すのです。つまり、自分とはこの身体に違いないという思い込みです。

そしてまもなく、更に自分とマインド(思考)を同化させていくことになるのです。ここにきて、当然のことながら「私」というものが立ち上がってくるのです。

この過程は、別の切り口から見ると、親と分離していく時期であるとも言えるのです。どの子供も、分離などしたくもないのに、成長と共に仕方なく、また残念ながらも、ここに「私」がいるということを受け容れてしまうのです。

これが自我(エゴ)の始まりですね。あなたは、「自分とは身体だ」と言えるでしょうか?その表現に違和感がないのであれば、まだ身体との同化が強く残っているということです。

同化が薄れていれば、「これは自分の身体だ」という方が自然な感じがするはずです。この身体との同化の深度は、きっと人によってかなりの違いがあるように思います。

けれども、一方マインド(思考)との同化についてはどうかと言えば、それはもうほとんど100%の人たちが完全に同化していると断言できます。

ただし、その中でも何となく意識と思考の区別ができているような感じがするのであれば、思考との同化は減ってきていると言ってもいいかもしれません。

やってきては去っていく思考とは、ちょうど青空の中にやってきては去っていく、幾層もの雲と同じようなものだと考えることができますね

そして、思考という雲のバックグラウンドこそが、意識という青空であると考えればいいのです。そして、思考との同化が減ってくると、自分の本性とはこの純粋な意識なのだと分かるようになるはずです。

青空が永遠に続くように、あなたという意識は生まれることも死ぬこともありませんし、青空のように無限の大きさなのです。そのことは、同化がなくなったときに当然のこととして気づくことになるのです。

知性を超える生の神秘

この広大無辺な宇宙に思いを馳せるとき、きっとどこかに我々人類のような知的生命体がいるに違いない、あるいはいて欲しいと誰もが考えるものですね。

そうした気持ちが、宇宙人やUFOの存在への興味となって現れてくるのも当然のことだと思います。ところで、この知的生命体とは、一体何を指しているのでしょうか?

たとえば人類は、宇宙の年齢から比べれば、ほんの一瞬としかいいようのない、ほんの短い期間に、宇宙は約137億年前にビッグバンによって生まれた、ということを発見してしまいました。

これは、ある意味奇跡と言ってもいいと思うのです。こうした奇跡的なことを起こすことができたのも、我々知的生命体がいたからだというわけです。

もしも地球上に人類が登場していなければ、地球はそれこそ自然のままの姿を永遠に続けることしかできなかったはずだということです。そこには、我々のような知性というものがないからです。

でも待ってください。こうした知性を備えた人類のような知的生命体が出現したのは、なぜなのでしょうか?単なる自然界の進化による偶然の成せるワザなのでしょうか?

私自身、長い間自然界とは知性のかけらもないのだけれど、それなりに長い時間を費やすことであらゆる可能性が起きるのであって、知性もその一つの結果に過ぎないとどこかで思っていたのです。

けれども、今ではそれには無理があるように感じるのです。この宇宙、この生というものは実は我々の知性そのものを遥かに超越したものではないかということです。

それは、けっして私たちが誇る知性では解明することができないものなのです。生とは神秘であって、解明する対象ではないということです。

科学はそれを知性によって解明しようと努力を続けているのですが、生の神秘はけっして科学には触れることすらできないものだと感じるのです。

この生の神秘とは、あなたの本質のことでもあるのです。知性を遥かに超えたあなたの本質とは?少しでも生きている間にその神秘に触れたいと思わずにいられません。

三つの「グナ」の話し

「グナ」とは聞き慣れない言葉だと思いますが、それは、人間の人格を形成している三つの基本的資質のことを言うのだそうです。

インドのクリシュナは、バガヴァッド・ギータの中でそれについて解説しているのですが…。

-タマス・グナを持った人間は、非活動的、惰性、怠惰を示す。

-ラジャス・グナを持った人間は、強烈な活動あるいは情熱を示す。

-サットヴァ・グナを持った人間は、平静さや穏やかさ、知恵といった質を現わす。

一般的に、この三つのグナはすべて、あらゆる人間の中に違った割合で存在しているのだそうで。それぞれの人の中のこれら三つのグナの混合がその人の人格を形成しているということ。

ある人の中で、一つのグナがどんなに支配的であろうと、他の二つのグナはたとえ休眠状態にせよ、かならずそこにあるとのことです。

あなたのグナはどんな混合の割合になっているか、しばらく自分の内側を見つめてみるといいかもしれません。三つのグナがバランスよく備わっている人もいるでしょうし、どれか一つが突出している人もいるはずです。

私は、この情報を知ったときに、瞬時に自分はタマスが超優先していると分かりました。サットヴァもそこそこですが、ラジャスがほとんど見当たらないという、極端なタイプです。

私を簡単に形容するとすれば、非活動的であって非情熱的ということで、タマスとラジャスの割合が極端に異なっているということです。

だから、子供のころからじっとしていることが多かったし、外出というものに生涯にわたって興味がないのです。何かを自分から働きかけるというのが、とても苦手なのも納得しました。

もしかすると、こうした傾向が強いからこそ、瞑想などに興味を持ったのかもしれません。逆にラジャスが優勢で活動的な人に、自分と同じように瞑想を進めるのはいかがなものかと思い知りました。

誰もが自分の持って生まれた資質を知っておくのは、無理のない自分に適した生き方をする上でも、とても大切なことなのかもしれませんね。