エゴだけが唯一の問題

世界中で、毎日様々なことが起きていて、その中にはとても悲しむべきこととか、理不尽過ぎてハラワタが煮えくり返るようなこと、無数の争いによる悲惨なことなどが氾濫しています。

自分の身の周りに直接起きることが、それほど大した問題がないというだけで、ちょっと安心しているに過ぎません。明日はどうなるのか、分かったものではないのです。

つまり、この世界は問題だらけなのです。こうした現状を眼を覆わずにすべてを見るなら、未来に大変な不安を感じてしまうのも当然かもしれません。

けれども、実はこの世界には、ほんの一つの問題しかありませんし、それも実際には幻想のような思い込みに過ぎないのです。

その唯一の問題とは、私たち一人ひとりの中にあると想定されるエゴなのです。エゴだけが問題であって、それ以外の問題は何もありはしないのです。

エゴは問題視する専門家なのです。エゴが見れば、そこには無数の問題が散らばっているように見えてしまうということです。エゴを除いて、この宇宙には何一つ問題はないと言えるのです。

残酷なこと、悲惨なこと、理不尽なこと、こうしたことのすべては、エゴの解釈によってあたかも実在するように感じられるということです。

もしもあなたが、誰かに理不尽な振る舞いをされたとしたら、あなたは怒るか落ち込むか、あるいは悲しくなってしまうかもしれません。けれども、理不尽さはあなたの外側にあるわけではないのです。

理不尽な振る舞いという現象が外にあるのではなく、誰かの振る舞いを知覚したあなたのエゴが、それを自分にとって理不尽なことだと判断することによって、あなたの心が傷つけられることになったのです。

あなたの心を傷つけたのは、他でもないあなたのエゴの判断によるものなのです。あなたを傷つけるのは、あなたのマインドの中の思考なのです。

無思考の状態に入れば、そこにはどんな問題も存在することはできなくなるのです。ただ在るがまま、ただ起きることが起きているだけだからです。

こんな表を書いてみた

今日、セッションの前に静かにしていたとき、何となくホワイトボードに以下のような表を書いてみました。エゴというのは、どんなものでも理解しようとしてしまうのですね。

だから、これも方便だと思って見て欲しいのですが、それでも少しは何かの役に立つかもしれないので、ふわっとした見方で見て下さいね。

私たちにとって、もっとも深くくつろぐことができ、気持ちよくリフレッシュができるのは、完全に熟睡した後ですね。なぜなら、そのときには、思考がなく、つまり自分というエゴが完全に停止状態にあるからです。

エゴがなければ、緊張は皆無となるのです。エゴは、必ず緊張を携えて生きているのですから。ところが、熟睡状態では、残念ながら無意識となっているために、リアルタイムにその寛ぎを感じることができないのです。

その一方で、目が覚めるとすぐに思考が活動を始めてしまうので、その深いくつろぎはあっという間になくなってしまうというのが現状なのです。

つまり、健康的な人というのは、目覚めている(意識あり、思考あり)  ←→ 寝ている(意識なし、思考なし) の変移を昼夜を通して、繰り返しているのです。

それでもそれはいい方で、いつも考えるクセがついてしまっている人は、意識がなくなる睡眠状態であっても、夢という形で思考が活動を続けてしまうので、目覚めが悪くなるのです。

つまり、熟睡状態のように無思考になりながらも、しっかりと気づいている、つまり意識がある状態が保てれば素晴らしくいいわけです。それが深い瞑想というわけです。

(意識あり&思考なし)というのは、何も瞑想ばかりではなくて、何かに全身全霊で没頭しているときや、突然の驚愕などでも体験することができますし、深い愛の中へ入ったときにも起きるはずです。

意識的に無思考の中へ入っていって、戻ってこなくなった人こそ、光明を得た人なのでしょうね。一度そうなると、今度は思考もツールとして使うことができるようになるので、外側からは一般人との見分けがつかないかもしれません。

 

 

問題を問題視することこそが問題だ

日々のクライアントさんとのセッションで、私は最近特にほとんど何も気にせずに、大抵は言いたいことを言っていると思います。

クライアントさんの中には、10代、あるいは20代の人も沢山いらっしゃいます。もしも、20代の自分が今の自分のセッションを受けたらどう感じるのだろうかと、いつも思っています。

通常の癒しの内容でしたらまだしも、我々の本質についての話などは、もしもその頃の自分が聞いたとしたら、きっと面喰うことになったはずです。

このオジサンは一体まことしやかに何を言っているのだろうか?こんなことを聞きに来たのではないんだけれど、この話したがりのオジサンはどういう人なのだろう?

そんな風に感じるのかもしれません。でも、実際のクライアントさんは、私の言葉の内容を自分なりに理解しているようなのです。それがすごいなと思うのです。

私の言葉の一つひとつは、実際私というエゴの言葉ではないと感じているので、これは決して自慢でも何でもないのですが、20代の若者が真実への言葉を受け容れることができるのです。

それは本当に素晴らしいと思うのです。真実を言葉にしようとすれば、それはあらゆる矛盾を包含することになるし、とにかく怪しい雰囲気満載なわけです。

何か問題があれば、人はそれをどうやって解決していけばいいのだろうかと考えるわけです。それが通常の思考回路です。けれども、それがそもそも間違いなのです。

その問題をなぜ自分は問題視しているのだろうか、その根っこは一体なんだろうというところを観に行くのです。その問題に対しては、直接何もしないということです。

例えばもしもあなたが、寂しくて仕方ないとするなら、セラピストの私の口からは、そこから逃げないで下さいと言う言葉が発せられることになるのです。

その寂しさがどこからくるのかを見て、またその寂しさととことんただ一緒にいることです。寂しさを何とかして解決しようとすることこそが、問題を大きくして長引かせる原因なのです、と言うのでしょうね。

そんなことは、本当に長年にわたって知りませんでした。でも今なら分かるのです。セラピストの言葉を信じるのではなく、興味があればそれを実践して自分で真偽のほどを確かめればいいのです。

もっと沢山の人にセッションにいらして欲しいと思います。勿論その目的は、あなたの真の姿に目覚めることです。それ以外に人生には何の目的もないのですから。

闘わず、防衛せず、ただ在ることに気づく

8月15日は、終戦記念日ですね。もっと正確に言えば、敗戦記念日とも言えます。あれから、69年が経ちますが、その間日本は一度も戦争を体験せずにやってきました。

それが、日本のいわゆる平和憲法のおかげだと本当に信じている人もいるかもしれません。真偽のほどは、私にとってはどうでもいいことです。

国が戦争をしなくても、私たち一人ひとりの心は、決して平和にはなっていないのですから。日本に限らず、この何千年を見ても、人類が真に平和であったことは一度もありません。

それには、はっきりとした理由があるのです。それは、私たちのマインドにいるエゴが、自分に闘うようにと働きかけ続けているからです。

そして、誰もがそのエゴの掛け声に洗脳され、巻き込まれてしまっているからです。エゴの本音はと言えば、闘って勝て、傷つかないように自分を守れ、なのです。

闘って欲しいものを手に入れること、そのときにこそ自分は幸せになることができる、そうエゴはわめき立て続けているのです。誰もが、その声の大きさと威力にやられてしまっているのです。

勿論例外もあります。それは、この世界に絶望してしまった人、何を試してみてもうまく行かずに、もうあきらめるしかないというところまで行った人。

このような人が、実は真実に気づく大チャンスを手にしているのです。エゴがあなたをリードしている限り、あなたの心に平安がやってくることは決してありません。

やれることはすべてやって、それでもうまく行かなくて、もうほとほと絶望したという人は、自分の人生の手綱を生に明け渡すことができるのです。

そうすると、あのエゴの声が静かになって、ひとりでに自分の本質と出会うことになるのです。だから、とことんエゴに乗っ取られて行くところまで行けばいいのです。

勿論それは果てしない苦しみにも遭遇せざるをません。癒しというのは、そこまで行く前にエゴのやりくちを徹底的に解明することで、その正体を見破り、自分の本質に気づくことなのです。

目覚めのコールはいつやってくる?

以前会社員だったころ、日本中のあちこちへ出張することが多かったのですが、そのときにはビジネスホテルに泊まることがほとんどでした。

みなさんは、そういうホテルのサービスにモーニングコールというのがあるのをご存じですか?ベッド脇にある装置で時間を設定しておくと、翌日の朝その時間に電話がなって、誰かの生声で起こしてくれるのです。

いつもは自分が持参した目覚まし時計で起きていたのですが、その日はなぜかモーニングコールを試してみたくなったのです。やさしい女性の声で起こされたらさぞ癒されると思ったりして…。

残念ながら、その声は女性ではなくて若いはつらつとした男性の声だったのですが、それでもしっかり訓練された丁寧な言葉遣いだったので、いい気持ちで目を覚ますことができました。

これって、委ねるということですね。自分がどんなに眠かろうが、どれほど素晴らしい夢を見ていようと、とにかく目を覚ましてもらうように依頼するのですから、ある種の明け渡しです。

本当はそのときに、自分はまだ目を覚ましたくなかったかもしれませんが、とにかく相手に明け渡したのですから、そこで覚醒することができるのです。

これがもしも、自分だけの決意だったなら、本当に起きれたかどうか疑問です。まだ眠りを貪っていたい、この夢の中で幸福を味わっていたいと思ったかもしれないからです。

この人生においての導師と弟子の関係もそのようなものなのかもしれません。弟子は、導師に完全に自分を明け渡すのですから。

そして、導師は弟子の状態を深く洞察することで最良の刺激を与えてくれるのです。弟子のエゴがどれほど夢から醒めることを拒否したとしても、導師は弟子に目覚めの一撃を与えてくれるのです。

だれもがいつかは、そうした目覚めのコールをかけてもらう時がやってくると思うのです。それまで、何もせずにいるのか、それとも目覚める準備を自分なりに進めるのかは、自分次第ですね。

あなたの本質は空虚であり全体なのです

以前瞑想中に、自分という人物像についてのイメージをめぐらしていたときに、その像の背中の当たりを指でデコピンするような感じで弾いてみたら、パラパラと跡形もなく崩れ落ちたのを見たことがありました。

そのときに初めて、ああ、自分というのは単なるイメージ、像なのだなとはっきり思ったのです。だからこそ、人物像というわけです。そこに実体はないのです。

けれでも私たちは、どうしても自分という存在がここにいると感じてしまうのです。感じるからこそ、ちゃんとした実体があるに違いないとも信じるのです。

マインドは何からできているのかということを見てみると、雲のように来ては去っていく沢山の思考群と、その思考によって生み出された感情、そしておびただしい量の記憶から成り立っていることが分かります。

たとえば、今日の記憶とはどういうものかというと、昨日までの記憶の中にある自己像が体験した事実、思考、感情などで出来上がっているのです。

つまり、私たちは、記憶の中でだけは自己が益々体験を増やして肥えて行くわけです。けれども、それは実は記憶の中での話しであって、本当は毎日が新鮮な新しい体験者と体験で出来ているのです。

エゴはとにかく蓄積していくのです。蓄積して蓄積して、もうどれだけの生を超えて蓄積してきたことでしょう。その集大成が今のあなたのエゴなのです。

でも、心静かに自分に意識を向けてあげれば分かることですが、自分の内側はスカスカです。空虚そのものです。膨大な記憶も一過性の思考や感情も、勿論自分自身ではないと分かります。

そのどれでもないもの、それこそは時間と空間を超えて在るもの。それが純粋な意識であるあなたの本質なのです。それは全くの空虚であると同時に全体でもあるのです。

自分が溶けて消えていく

あなたのエゴは、いつも自分という存在を明確にしたいと望んでいます。常に、自分はここにいるという現実の中で生きて行かなければならないのです。

そう頑張っている本当の理由は、エゴとは思考による作り物だからです。だからこそ、エゴはあなたに闘いなさい、闘って欲しいもの、必要なものを手に入れるように急き立てるのです。

そうやって希望が叶えば、あなたは幸せになれると洗脳してくるのです。私たちは、幼いころからそのエゴの声に圧倒されながら、闘いと防衛の日々を生きてきてしまったのです。

それはエゴにとっては好都合ですが、あなたにとってはひどい仕打ちだったのです。あなたが感じるあらゆる苦しみは、エゴがそそのかすその生き方にあったのです。

そこから抜け出すためには、エゴがあまり好まないことを工夫してみるのが効果的です。たとえば、日常的なあらゆる場面で、「自分が溶けて消えていく」イメージを作るのです。

気持ちのいい朝の空気の中を歩いているなら、その空気の中にあたかも自分が消えていくように感じてみるのです。自分の身体が大気中に溶け出して、次第に薄れていくさまを感じるのです。

元々、あなたの身体を構成している原子は、外側にある大気やこの世界を作り出している原子と何も変わらないのですから、外の世界とあなたの身体の境界というのは、本当はありはしないのです。

あるいは、心静かに目を閉じて瞑想しているのなら、その果てしのない闇に包まれて安らぎながら、やはりその闇の中へとあなたそのものが溶けて消えていくのをイメージするのです。

こうしたことを繰り返しているうちに、時々本当に自分がいるのかいないのかが曖昧な感覚になり、それは至福感となってやってくることにもなるのです。

自分がいない、つまりエゴがないということは、何と清々しい爽快感なのでしょう。その至福感は、自分が溶けて消えていくイメージとともにやってきてくれますよ。

その感覚は、エゴの好きな達成感のようなものとは、本質的に異なるものです。達成感はやってきたとしても、一瞬のうちに過ぎ去ってしまいます。

この至福感は、気持ちの高揚のようなものではないので、低く静かにただ在る感覚なのです。

エゴとは卵の殻のようなもの

osho の表現の素晴らしさを、少しだけおすそ分けします。

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エゴはひとつの副産物だ。あなたの成長の副産物だ。生の自然な歩みの副産物だ。それは必然だ。ほかに道はない。

エゴを伴わない進化はない。でもある時点で、エゴは落とせるようになる。そうしたらエゴを落とし、超越することだ。

エゴとは、ちょうど卵の殻のようなものだ。それは保護層として必要だ。ちょうど種子の殻のように、保護層として必要だ。

でもその保護は、危険なものとなる。その保護が過剰となり、いつまでも種子の発芽を許さないようであれば、それは妨げとなる。

種子は、土の中に溶け去るものだ。そうすれば内側の生が現れる。種子とは死ぬものだ。

人はみな種子として生まれる。エゴは外皮だ。子供を守っている。もし子供がエゴなしに生まれたら……「自分は存在する」という感覚なしで生まれたら、生き残れない。

自分を守ることも、戦うこともできないし、存在するに必要なことが何もできない。だからまず強力な中心が必要だ。

たとえそれが偽りであろうとも必要だ。でもある地点に至ったら、この補助は妨げとなる。それはあなたを外側から守っていたが、強くなりすぎると邪魔になる。

内なる存在の邪魔になって、あなたはもはや、広がったり、それを超えたり、発芽したりできなくなる。エゴは必要だが、いつかは超越しないといけない。

エゴを持って死んだら、それは種子のまま死んだということだ。自らに可能であった宿命を成就することなく、意識的に<存在>を成就することなく、死んだということだ。
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ナンバーワンを期待する心

生まれてくる赤ちゃんは、一人の例外もなく、自分が親にとっての最大の関心事であることを期待しているのです。それは、もう激しく貪欲なはずなのです。

それが実現して、自分がナンバーワンであると感じて、プラスマイナスゼロなのです。つまり、親の関心が一番に自分に向かっているという実感を得てこそ、それが当然ということなのです。

もしも、親の心の中に、何やらその赤ちゃん以外に気になることが存在していたら、それはどんなものであれマイナス点がついてしまうということです。

したがって、親がプラスの点数をつけてもらえることはなく、ただただ零点かマイナス点になってしまうのです。親がその子のことよりも、関心があることとはどんなものが在り得るでしょうか?

たとえば、親自身の心身の具合のこととか、親自身の生に対する不安感だったり、とにかく大きく気になることがあれば、それが何であれその子をナンバーワンの座から引きずり下ろすことになるのです。

その子の兄弟が重篤な病に侵されていたりしたら、間違いなくその子はナンバーワンではなくなるでしょうし、親が何かの宗教にぞっこんになれば、それも同じような結果となってしまいます。

ナンバーワンの座を奪われたと感じた子供は、その悲しみやその惨めさをどうにかして穴埋めしないではいられません。そのために、何かゲームのようなものにはまり込むかもしれません。

あるいは、そのどうしようもない否定的な感情を、徹底的に感じないようにしてしまうかもしれません。つまり、感じるハートを閉ざしてしまうということです。

そうなったら、表面的にはあまり苦しさを感じなくて済むために、その子はなんとか毎日をやり繰りして生活することができるのですが、その代償は凄まじいものとなってしまうのです。

感じないようにして溜め込んでしまった感情のエネルギーは、いつか機会を見つけて本人の前へと現れようとするのです。それは、病気やけが、あるいは感情の爆発などといった形を取るかもしれません。

もしもあなたの人生がどうにもうまく行っているとは思えないなら、幼いころに自分が親にとってのナンバーワンだったかどうか、よくよく思い出すことです。

そして、ナンバーワンでいられなかった事実があるなら、その子の心を時間をかけて十分に癒して行くことが必要なのです。その子の癒しに連動して、あなたの人生に変容が起きてくるはずです。

生と死を超えて

私たちにとって最も確実なこととは、それはいずれは死ぬということですね。これほどの確実なことは他にはありません。生まれた瞬間にそのことは、もう決められてしまうのです。

明日の朝がやってくるということも、ほとんど確実ですが、それでも完全には確実ではありません。場合によっては、地球が巨大な隕石とぶつかって、吹っ飛んでしまうかもしれないからです。

あるいは、朝が来る前に太陽が爆発するかもしれません。その確率は限りなくゼロに近いかもしれませんが、ゼロではないはずです。

けれども、あなたがいずれは死ぬということは、100%完全に確定していることです。少し前に始まったあなたの生は、単独でやってきたわけではなく、死を携えてきたのですから。

死は生とは切っても切れないものです。それはコインの表と裏のような関係です。そして、今生きている誰もが一度もその死を経験していないにもかかわらず、恐れているのです。

どんなものかも知らないのに、なぜこれほどまでに死を恐れるのでしょうか?それは実は、生を恐れているからです。生を恐れているために、十分に生を堪能することができずにいるのです。

生をエンジョイできないままに、死んでしまうということ、これこそが本当の恐れなのです。生を十分に満喫した人は、きっと死を恐れることがなくなるはずなのです。

本当は死とは恐れるものではありません。それは深い安らぎであり、究極のくつろぎなのですから。あるいは、この生で疲れ果てたあなたの魂が、次の生への準備として十分に精気を養う大切な間なのです。

深く瞑想すれば、それは死と同じ安らぎを感じることができるのです。夢を見ることのない深い睡眠も、死と何も変わるものではありません。

瞑想を習慣化することで、死を恐れることから少しずつ解放されるし、また死を恐れなくなればなるほど、深い瞑想へと誘われることにもなるはずです。

そうして、いずれはあなたの本質である純粋な意識、気づきそのものこそが、生と死を超えた永遠のものであるということを知ることになるのですね。