言葉から離れてみる

誰かと一緒にいて、まったく会話をしないというのは、少し居心地の悪い感じがしますね。勿論、互いに何かをやっている場合はいいのですが、何もせずにかつ会話がないというのは、どうにも居づらいのです。

会話に使う言葉を発明したのは、人間の素晴らしいところの一つに違いありません。言葉がなければ、私たちの99%のコミュニケーションができなくなってしまうのですから。

そういう意味からして、言葉はとても大事なものです。言葉とは思考であり、思考とは言葉なのです。勿論言葉を伴わない思考というものも存在することはします。

しかし、そういう思考というのは、本当に原始的で単純な思考に限られてしまうのです。私たち人間の進化とは、言葉による思考を積み重ねた結果、非常に複雑で論理的な思考を駆使することができるようになったことなのです。

だから言葉とは、人間の代名詞と思ってもいいくらいなのです。言葉とは、それが思考であるためにこの世界を解説するためには適したものなのです。

けれども、思考を越えた真実については、どれほど言葉を上手に繋ぎあわせたところで、決してそれを表現することはできないのです。

例えば、かつてブッダは神については一言も触れなかったし、神についての質問はするなと明言していたらしいのです。神についての何か少しでも言葉にすれば、それは間違ったことを言うことになってしまうからです。

このブログにしても、言葉を連ねて何かを伝えようとしているわけですが、本質的なことは残念ながら表現することはできないのです。

それでも私たちは言葉を使うしかないわけですから、言葉の奥にある、いわゆる行間を感じるということでしか、真理は伝わらないのですね。

もしもあなたが、ずっと誰かと会話をし続けていたり、独りになったときにも、心の中で言葉が止まらないのでしたら、それは大問題です。思考に乗っ取られていると思った方がいいのです。

可能な限り不必要な会話を控えるようにしたり、心の中から聞こえてくる言葉に巻き込まれないようにすることが得策です。

そうして、言葉のない時間というものを作ってみることです。言葉があればそこには必ずエゴがあるのですから。どれほど素晴らしい言葉でも、言葉によって満たされることはないと知ることです。

人生の不思議さ

まさか自分の人生がこんな風な展開になっていくとは、若いころには想像もつきませんでした。というのも、45歳の頃に病気がきっかけでサラリーマンを辞めるまでは、自分の人生は典型的な、平均的な日本人のものだと感じていたからです。

特別なことは何もなく、誰かに自慢できることも何もなく、事件らしきことも何もなく、ただ淡々と平凡過ぎる毎日を送っていたからです。

自分の生活や経歴を誰かに話して、それを理解されないなどということは在り得ないことだとも思っていました。ところが、サラリーマンを辞めてセラピストになってからは、一変してしまいました。

仕事の内容を詳しく説明しようとすればするほど、思ったようには相手に伝わらないのだということを思い知らされることとなったのです。

仕事の内容だけでなく、自分が感じていることや自分が理解するようになった、人の心についての事柄は、どうやっても平均的な日本人のそれとは全く異なるものとなったのです。

そこで、自分は完全に社会のアウトローになったのだなと実感したのです。それはある種残念なことでもあり、また一方ではとても小気味いいことでもあったのです。

社会から逸脱した生き方、考え方を持っているということは、もうどれほど頑張っても社会の表舞台には出て行かれないということなのですが、それはそれで構わないのです。

この年齢になって、以前よりも更に無欲になってきたというのか、別の言い方をすれば、欲望が一点に凝縮されるようになってきたということです。

人物としての自分がどんな体験をするのかということへの興味が薄れ、代わりに自分の本質へと意識を向け続けることだけに集中したくなったのです。

クライアントさんからの予約が入らなければ、経済的に困ったことになるのですが、ごく最近ではそれも必要なチャンスをいただけたという感覚へと変化してきています。

考えてみると、私くらい恵まれている環境にある人は少ないのかもしれません。雑務らしきものが、毎日の生活から排除されているからです。

思い返すと、不思議な人生です。すべてが整いつつあるということを実感することができます。最後のひとっ跳びは、いつやってきてくれるのか、それともこないのか、楽しみです。

ノーマインドが真実をもたらす

誰もが丸裸でこの世界に生まれ出てくるので、人生でやるべきことは必要なものを手に入れ続けるということなのです。それは、モノやお金に限らず、あらゆるものが含まれます。

愛する人や家族だったり、知識などもそうですね。とにかく、私たちのマインドは自分の外側にある必要なものをできるだけ多くゲットすることが幸福への道だと信じています。

だからそのために頑張ったり我慢したりすることは得意なのです。精一杯努力したり、身体に力を込めて緊張することには慣れているのです。

けれども、その逆のこと、つまり頑張らないとか、力を抜いてリラックスするということは、どうも苦手になってしまっているのです。

マインドというのは、その性質として目的志向なのです。何かを目指すとか、目標を設定してそれへの到達を目的として生きるということをし続けるのです。

そうでなければ、マインドはそれ自体の意味がなくなってしまい、結局は消滅することになってしまうからです。マインドにとって、最も困ることは手に入れたものを手放すということ。

昨日まで相思相愛だった大切な相手から、突然別れを告げられたら誰だって冷静ではいられないはずですね。当然のことですが、当分は相手への執着心が残ってしまうでしょう。

手放すということは、マインドにとって最も苦手なことなのです。それはこれまで培ってきた知識であっても同じです。知識を手放すことくらい難しいことはありません。

必要なものを手に入れながら、目的地へ向かって進むこと、そのことにしかマインドは能力を発揮できないのです。ところが、この生き方というのは未来志向でもあるのです。

明日への期待を餌にして、マインドは生き延びているからです。もしも過去も未来もない、たった今この瞬間しかリアルではないと分かったなら、マインドは働くことができなくなってしまうのです。

けれども、あなたが本当に欲している完全なる静寂さや、至福という真実の味わいは、この瞬間にしかないのです。もしも、あなたがどんな目的も手放して、ただここに在ることができるなら、マインドは消滅してしまうでしょう。

その結果、精神活動をまったくしないノーマインドの状態が起こり、それまで隠されてきた真実が姿を顕わすことになるのですね。

二元性が消滅するとき

私たちの住んでいるこの世界は、二元性というもので出来上がっています。光があればその反対の闇があり、固いがあれば柔らかいがあるように、あらゆるものが対として存在しているのです。

こんな子供でも知っているような当り前のことでも、ときとして私たちはそれを忘れて、対のうちのどちらか一方の都合のいい方だけが、あたかも存在しているように見てしまうのです。

誰もが快適な生活を望んでいるのですが、それにも必ず不快な部分がくっついてくることを忘れてしまうのです。生きていると、その反対の死が必ずくっついてくるのに、そのことを忘れようとしているのです。

そこにこそ、苦しみの根源があるのです。分かっていながらも、心のどこかで一方を無視しようとすることで、それを拒絶すればするほど苦しみは深くなるのです。

逆に、もしも幸せを求めても、それには必ず不幸がくっついてくるということを、あらかじめ受容することができるなら、何も問題は起こらないはずなのです。

悦びがやってきたら、いつかは悲しみもやってくるのです。それを避けることはできません。それを避けることができるという幻想があなたの心の中にある限り、決して満たされることはありません。

あなたが誰かを愛せば、そこには必ず何等かの憎しみもついてきます。残念ですが、どれほど愛していたとしても、そこには憎しみが含まれているのです。

いやいや自分は相手のことを純粋な愛で包んでいるので、憎しみなど含むはずがないと思っているかもしれませんが、それは不可能なのです。なぜなら、二元性の原理が働いているからです。

ただし、唯一この二元性の原理が崩壊する瞬間というものがあるのも事実です。それは、あなたという人物があなたの中で消えているときです。

相手を愛している当のあなたがいなくなれば、そこには純粋な愛が発生することができるのです。なぜなら、本当のことを言えば、二元性というのはあなたのマインドが創り出しているものだからです。

マインドが消滅した瞬間、この世界は純粋無垢なものへと変貌するのです。それが「不二」ということ。つまり、二つ目のない、一つだけがただ在るということ。

それこそが真実なのですね。

自己表現の練習あるのみ

自己表現というのは、相手に向かってはっきりと「ノー!」と言うことです。「イエス!」は、自己表現のうちに入りません。なぜなら、そこにはどんな危険もないからです。

もしもあなたが、「ノー!」という自己表現が苦手だという自覚があるのでしたら、その理由にしっかりと気づいているかどうかが大切なのです。

自己表現を抑える本当の理由とは、自己防衛なのです。つまり、相手の気持ちを逆なでするようなことを言わないことにして、相手から否定されたり嫌われたりするリスクを回避しようとしているのです。

相手の期待に応え、相手の都合のいい自分を演出することで、見捨てられて惨めな自分にならないように、本当のことを言わずに相手に迎合しようと努力しているということです。

見捨てられる恐怖とは、幼い子供にしてみれば死の恐怖に匹敵するものですから、是が非でも自己表現をしないようにとしてしまうのです。

ところが、自己表現をしないことで一つの恐怖から逃れることはできるのですが、実はもう一つの恐怖を益々増やしてしまう結果となるのです。

それは、自分の自由が奪われて、相手に侵略されてしまうという恐怖です。「ノー!」とはっきり言えないということは、相手に屈服してしまうということになるからです。

そうなると、さらに他人の存在というものへの恐怖が大きくなってしまうのです。つまり、見捨てられる恐怖だけでなく、侵略される恐怖も加わってしまうからです。

自己防衛のつもりで自己表現を抑えたことが、実は防衛にはならずにさらに他人への恐怖を増大させる結果を招いてしまうということなのです。

自己表現が苦手であるなら、こうしたことにしっかりと目を向けて、少しずつでも自己表現ができるように練習することです。恐怖から逃げずに自分を訓練することです。

そうやって、徐々にですが他人への恐怖というものが薄れていくことになるのです。幼い頃ならともかく、大人になったあなたなら、必ず練習すればできるようになるはずです。

できてしまえば、なんでもないことだったと気づけるはずです。

心の声を受け止める

詳しいことは言えませんが、昨日20代半ばくらいのとても素敵な女性がセッションを受けにいらっしゃいました。あらかじめいただいていたご予約フォームには、男性と記してあったので一瞬びっくりしましたが…。

でも今はそういうことも珍しいことではありません。いわゆる GID 性同一性障害の方は、過去にも何度もクライアントさんとして来られたことがありました。

性同一性障害と言う言葉もどうかと思うのですが、世の中ではまだ障害という見方をするのが一般的なのかもしれないですね。

きっと、ご本人は子供のころや10代の頃には人知れず悩みぬいたこともあったに違いありません。一番親しい親からも、理解を得られるとは限らないからです。けれども、彼女はもうすでに自分をしっかり確立していました。

まだ20代なのですが、ただ漫然を生を生きているというのではなくて、しっかりと目を見開いて自分の人生と向き合っているということが伝わってきました。

どんな自分であっても、彼女のようにいずれは丸ごと自分を認めて、受け入れることができたなら、それだけで何にも代えがたい大切な気づきを得たことになるのです。

あなたはどうですか?生まれてから今に至るまでのありのままの自分をどれほど、受け止めてあげることができているでしょうか?

心の声の99を受け止めることができたとしても、たった一つでもこれだけはどうしても受け止められないというものがあるのなら、それは最初の99個も受け止めたことにはならないのです。

なぜなら、そこには判断が介入してしまっているからです。如何なる判断も、肯定も否定も、一切の思考を使わない状態でしか真に受け止めるということはできないのです。

もしも100%本当に受け止めることができたなら、その瞬間に自我(エゴ)は落ちていくでしょう。なぜなら、人生と闘うどんな理由もなくなってしまうからです。

必要なことのすべては、目覚めることだ!

by osho

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あなた方は、自分が誰であるかを忘れた神々だ。あなた方は眠りに落ちて、自分が乞食になった夢を見ている王たちなのだ。

今、乞食は王になろうと試みている。夢の中で、彼らは王になるためのたいへんな努力をしている。そして必要なことのすべては、目覚めることだ!

そして私が目覚めなさいと言う時、あなたはどこで目覚めることができるだろう?未来で?過去で?過去はもうない。未来はまだない -- あなたはどこで目覚めることができるだろう?

あなたはただ、今だけに目覚めることができる。そしてただ、ここだけで目覚めることができる。これが存在する唯一の瞬間だ。

そしてこれが存在する唯一の現実だ。そしてこれが、常にこれまで在り続けてきたものであり、かつ常にこれからも在るであろう唯一の現実だ。

達成者についての、あなたの基本的な哲学を変えなさい。あなたの存在にリラックスしなさい。どんな理想も持ってはいけない。

自分自身から何かを作り出そうとしてはいけない。神を改良しようとしてはいけない。あなたはそのままのあなたで完全なのだ。

あなたのすべての欠点と共に、あなたは完全だ。ひとたびこれを理解するなら、急ぐ必要はどこにあるだろう?心配する必要はどこにあるだろう?

あなたは既にゆっくりしてきた。それは目的地のない、行き先のない朝の散歩だ。あなたはそれぞれの木を、それぞれの日光を、それぞれの鳥を、そして通り過ぎるそれぞれの人を楽しむことができる。

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自分をトータルに生きる

子供の頃に、親がいつも優しくて怒ったりしないでいてくれたら、その子供はとても楽ですね。恐怖と闘わなくても毎日を生きて行くことができるからです。

そういう親は、一見すると理想的な親像のように捉えられるかもしれません。けれども、親が喜怒哀楽のどれかを見せないというのは、大問題なのです。

子供は、親が持っているすべての面を見て育つのが一番いいのです。なぜなら、人間とはそういうものだということを直接的に知ることができるからです。

喜怒哀楽をあまり見せ合わない家族の中で育つと、場合によっては自分のありのままを認めることができない子供になってしまうかもしれません。

なぜなら、人間としての否定的な側面を十分に見ずに育つわけですから。そうすると、子供は自分の中にある否定的な部分をごましながら生きて行くしかなくなってしまうのです。

自分には、どうしてもこういう嫌なところがある、すごく惨めな部分がある、とても人として醜い考えを持っている、このような自分を自分自身に対しても隠そうとしてしまうのです。

人間本来の美しさとは、決して部分的な側面だけでは見出すことができません。自分にとって都合のいい部分も、甚だ都合の悪い部分も、全部含めてトータルに見るときに限り、本当の美しさに気づくことができるのです。

あなたは、そのままで完全なのです。こうした言葉は、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、そのことをいい加減に聞き流してそのままにしてある可能性があります。

もしもあなたが不完全であるなら、それは完全に不完全だということです。不完全さを持っていない完全なものなど、この世界には一つもないのですから。

こうしたことを一度しっかり見つめてみることです。そしていつも、本当の美しさとは何なのか、何を持って完全と言うことができるのかを、感じてみることです。

あなたがあなたのままでいないなら、決して本来の美しさに出会うことはできないでしょう。自分自身をトータルに生きることでしか、生を堪能することはできないのです。

達成者のマインド

私たちは、誰でもゆっくりとくつろいでいたいという気持ちがある反面、もう一方では急がないとと思ってもいるのです。それは、あなたのマインドのどこかに、「早くしなさい!」と急き立てる部分があるからです。

私自身の感覚では、その声は小学3年生くらいから強くなってきたように思うのです。幼稚園のころは、のんびりと、おっとりと生きていた感覚がまだ残っているからです。

小学生になって、何かと急がされることが多くなったのです。早く給食を食べないと、早く問題を解かないと、それができなければ自分は落伍者になってしまう、そういう危機感を持たされるようになったのです。

そして私のマインドは、それを巧みに取り込んで、自分の言動力としてしまったのです。そして、今だにマインドのその部分は私の尻をたたきながら、私を急がせるのです。

意識的になっている時だけは、そのマインドに乗っ取られることも、抵抗することもなく、ただそれを脇に置いておくことができるのです。

けれども、一たび非意識的な状態に陥れば、マインドの思うままに操られてどこかへ向けて急ぎ出してしまうのです。どこかに向かう目的地などないというのに。

私たちが急ぐ理由は、マインドが目的志向だからです。そもそも、マインドは目的がなければ、それ自体の意味を失ってしまうのです。だから、マインドは今この瞬間にとどまっていることができません。

目的地へ到達しなければならない、何かを達成しなければならない、それが本当であれば人生は短いのだから成程急がなければならないということになるのです。

ここで、はっきりさせましょう!生に目的などありません。どんなゴールもありません。達成するべきどんな事柄もありはしないのです。生の目的は生そのものなのですから。

マインドにそそのかされて、ただ急いでいないかどうか、自分を観察してあげることです。そのことに気づくためにも、瞑想が一番手っ取り早いのです。

過去はもう消え失せてしまったし、未来はまだ来ていないのに、達成者のマインドは未来ばかりを気にしているのです。完全に意識的になれば、今の中に落ち着くことができるのです。

その時、マインドと同化しているあなたはどこにもいない状態となるのです。それがどれほど清々しいものか、一度でも体験したことがあれば分かるはずです。

怒りの奥にある惨めさを見る

毎日、お昼ご飯を事務所の近くで買っているのですが、その中で時々利用している有名なお弁当屋さんがあるのです。そのお店で最近メニューに追加された焼きそばを買って食べた時のことです。

作り立ての焼きそばがとても自分の口に合うので、その日もおいしい焼きそばを食べられると期待して、事務所で一口食べたときのことです。

ん?おいしくない!味が悪いというのではなくて、とにかく作り立ての感じが少しもしない。どうやら、作ってしばらく経ったものをあてがわれてしまったようなのです。

急に怒りが出てきて、(怒るのは好きなので)この怒りを明日徹底的にそのお店に行って、訴えてやろうと思ったのです。そして、次の日その店の店長に文句を言ったのです。

すると、予想に反してひどく丁重に謝ってもらうことができたので、もう二度と同じような間違いをしないで下さいねと釘をさして帰ったのでした。

それから、一週間ほどして、またそのお店に行くと、その店長さんが私の顔を覚えていたらしく、レジの仕事を別の人に頼んで、こちらまで出てきてくれて、これまた丁寧にどういう手違いがあったのかを丁寧に説明してくれたのです。

そうなると、今度は何となく自分が大したことでもないのに文句を言ってしまって、大人気なかったなとちょっと恥ずかしい気持ちにもなったのです。

それから、2、3日したあと近くのスーパーに買い物に行くと、その店長さんと偶然ばったり出くわしたのです。彼は、私が気づく前から私に気づいていたらしく、しっかりとこちらを向いて私と目が合うのを待っていたようでした。

若干の気まずさを感じながらも、少しの会話をしてその場は別れたのですが、今回のことでは彼の方が大人の対応をしてくれて、負けたなあというのが実感なのです。

文句を言うのは、楽しいものです。なぜなら、自分は何も悪くないというとても有利な立場にいるのですから。それを楽しんでいたというのもあるのですが、もうそろそろ卒業しようかなと思うようになりました。

私の場合は、自分が惨めな気持ちにさせられたというのがあると、それを隠すために怒りが出てくるということが分かっているのです。

その惨めさをしっかり感じてあげれば、怒る必要もなくなると分かっていながら、怒るのを楽しんでいたというのが本当のところなので、それももう終わりにしようと思い立ちました。

それもこれも、その店長さんのおかげなのでした。