山アラシ ジレンマ

みなさんは、山アラシ ジレンマという言葉を聞いたことがあるでしょうか?ご存知のように、山アラシという動物は、体中に尖がった針のようなものがいっぱい付いていて、それで外敵から身を守っている愛らしい奴ですね。

彼らが集団で生息している時に、気温が低くなって暖をとらねばならなくなったときに、互いに身を寄せ合って暖めあおうとするわけです。

しかし、近寄ればそれだけ身体の針で互いの身体を傷つけてしまうので、それ以上近寄ることができません。

かといって、遠くに遠ざかろうとしたらやはり寒くなり過ぎてしまい、それも困るわけです。そうやってどっちにしても思い通りにいかないというジレンマを抱えることになるのです。

そのことを山アラシ ジレンマというのだそうです。これは、心理学などでよく使われる言葉なのですが、それは人間の心理にも当てはまることがあるからです。

人は誰でも心の奥底で人との一体感を求めています。自分の気持ちを全部分かって欲しいというのも、そうした思いがあるからです。

そして相手とできるだけ距離を縮めて、すべてを分かり合いたいと思って心を開けば開くほど、傷つけられる可能性がとても高くなるのです。

そうして一度痛く傷つけられた経験をしてしまうと、今度は相手との距離をある程度保とうとするようになってしまいます。

でもそれは、本心である一体感を得るには遠すぎて、孤独の中に放り出されたような寂しさを感じてしまうという状態になるのです。

どちらにしても、満たされることがない、苦しいジレンマに悩まされるということになってしまうのです。

人といると気を使って疲れるので一人がいいけど、一人は寂しいよというのは誰しも経験があるのではないでしょうか。

しかし、本当の私達は山アラシのような針を持っているわけではありません。自分は傷つく存在だと思うことがそうしたジレンマを生むということを理解する必要があるのです。

コースの教えにあるように、自分を傷つけられるのは自分以外にはいないということをしっかりと見つめることが大切ですね。

理性的な意識

私達は、時として激しい感情が沸き起こってきたり、追い詰められてパニックになったりすると、理性的なコントロールが効かなくなってしまって大声を出してしまったり、とんでもない行動をしてしまうことがあります。

それでも、後で気持ちが落ち着いたときに自分の言動を思い返してみたときに、あれは理性的ではなかったなと理解して、それを認めることができますね。

そうした理性を欠く言動というのは、感情やその他の情動によって理性を使うことができなくなってしまっている状態なのだということが分かっています。

裏をかえせば、理性さえしっかりしていれば、つまり自分の自覚として理性的でいられる限りはそういった事にはならないという自信があります。

しかし、もしもその頼りにしている自分の理性そのものが歪められてしまったとしたらどうでしょうか?物事の理屈や歪みを認識できるのは、その理性がまともに働いているからこそなのです。

つまり、私達は理性そのものを歪められてしまうと、その理性によって物事を解釈し判断することになるため、その結果は理性的な判断や言動をとることができなくなってしまうのです。

しかし、その場合には自分の言動が理性的ではなくなっているという認識をすることができません。それを認識するための理性そのものが歪められているからです。

ですからこのような状態において、自分で自分の言動を正しく評価することは不可能なのです。でもそんなことはまずないだろうと思われるかもしれません。

これは以前コラムでも書きましたが、実は合理化と言われている人の心の防衛のメカニズムの一つとして実際にあるのです。

日常的にそうしたことがどのくらいあるのかというのは、各人の心の状態や防衛のパターンによっても違ってきますが、セラピーのセッションの場では事の他よく起きます。

それは、セッションでは本人が無自覚に抑圧してきたものに直面して何らかの気づきを得ていただくための支援をするため、ご本人の防衛機制が働き出すということが原因です。

本当に人の心とは不思議なものですね。とても興味深いですし、最近では自分の防衛するパターンを見つけて苦笑いすることも多いです。

責任逃れ

ある人にこういう質問をしたことがありました。「想像の中で、自分の言動として一番浅ましい、最も嫌悪することといったら何ですか?できるだけリアリティのあることでイメージしてみて下さい。」

その人はいろいろ考えた末に、ひき逃げの犯人になることかもしれないと言ってくれました。それを聞いたときに、最初はもっと極悪非道なことは沢山あるのにと意外な感じがしました。

その人の解釈では、爆弾テロのような殺人とか、強盗などはリアリティがないし、やっていることに向き合っているので、ある種の覚悟をしている行為という感じがするということでした。

それに比べて、ひき逃げというのは卑怯な感じがする、つまり責任逃れという意味あいが含まれており、それが一番ダメ出しの対象になるということでした。

それを聞いて一つ思い出したことがありました。学生のころに、友達と話しをしているときに、自分は殺人よりも脱税の方を忌み嫌うというようなことを言っていたのです。

殺人を擁護するような気持ちは勿論まったくありませんが、脱税の方が何かこう「せこさ」みたいなものを感じて、とても醜悪な気がするということかもしれません。

しかし、最近では人間のどんな卑劣な言動であろうと、それに対してあまり反応するということがなくなってきてしまいました。

その理由は、そうした浅ましい言動をしてしまう心の大元には分離しながら生きることの苦悩があるということが分かってしまったからです。

責任逃れというと、卑怯な感じがしますが、単に苦悩から逃れたいということだというように変換すれば、卑怯だという感覚はなくなってしまいますね。

人の悪い言動、ダメ出ししたくなるような自分の思いや感情、そうしたものは例外なく根本的な分離の苦悩から逃れたいというたった一つの原因からくるものなのです。

それを責めて、そこに罪を見出す必要があるでしょうか?

苦悩の根源

人類が月へ初めて到達してからもう40年前後経っていますね。その後も人類が宇宙に向けて進化を続けているのは誰でも承知していることです。

いずれは一般人でもロケットに乗って宇宙に出かけられるようになるはずです。ここで、ちょっと想像してみて欲しいことがあります。

それは一人乗りの宇宙船が故障して永遠に宇宙をさまようことになったらというものです。さまようと言っても、動力がなくなれば実際には一定の速度で直線的にどこかの方向に進み続けることになります。

宇宙空間には空気も雨もありませんから、宇宙船が錆びてしまったり、風化してぼろぼろになることはありません。

勿論実際にはその代わりに、隕石やら星などとぶつかってしまうかもしれませんが、そういったことは考えに入れずに永遠に宇宙空間を漂うと言う想定をするのです。

自分は生命維持装置につなげられており、食事も排泄もせずにずっと生き続けられると知っているとしましょう。

つまり、この状態とは完全なる孤独な環境の中で、絶対に永遠に死なずに生き続けられるという設定です。生命体として永久に生きていける環境であると同時に、気晴らしなどは一切できないというものですね。

現実の生活があまりにも辛すぎて生きては行けないと思っている人にとっては、もしかするとそんな宇宙船の中での永遠の孤独でも逃げ場として受け入れるかもしれません。

ですが、通常であればそんな環境では発狂してしまいそうだということが分かります。将来の不安もないし、お金がなくなって飢え死にする恐怖もないし、病気もないし、肉体的な苦しみもないというのに、なぜそう感じるのでしょうか?

実はこれこそが我々が本質的に抱えている苦悩なのです。私達が持っている本当の苦悩、恐怖とは死ぬことではなく、こうした分離感にあるのです。

誰もがこの分離感はとても堪えがたいものであると知っているため、それを死の恐怖に摩り替えておいて、しかもそれを抑圧して分からないようにするという念の入れようなのです。

ですから、この苦悩の根源からは相当に遠い意識で生きているのです。しかし、ここで想像したようなことをじっくり感じてみることで、この苦悩の根源におぼろげながらも気がつくことができます。

これこそが、すべては一つという愛の想念の対極にある苦悩です。私達は恋人に捨てられたから苦しいのではなく、お金持ちになって優雅な暮らしができるから幸せなのでもありません。

本当の苦悩は分離からくる愛の欠如であり、本当の幸せは愛への帰還なのです。それ以外のことはすべてまやかしだということに気づくことですね。

ショートカットは難しいのか

以前このブログでも書いたことがありますが、人の心の進化というものは、依存→自立→相互依存→神への依存 というような変遷をしていくものと思っています。

最後の神への依存というのは、全体(愛)への回帰というような意味あいがあり、神というものをわざわざ持ち出す必要はありません。

そのことはともかくとして、私の中でここ数年懸案になっているのは、依存から自立や相互依存をすっ飛ばして、一気に最後まで到達できないかというものです。

つまり心の癒しのショートカットは現実的だろうかということです。セッションにいらっしゃるクライアントさんは、自覚があろうとなかろうと概ね依存から自立へとうまく移行できずに困っている状態なのです。

勿論この依存は全人格的なレベルの場合から、特定の一部についてだけの依存という場合まで様々なのですが、それでも人生がうまく行かないというのは依存からうまく自立ができてないことによるのです。

したがって、セラピーの大部分はこの依存から自立へと向かうことを支援するということになります。しかし、もしもそんな回りくどいことをせずに、ショートカットして最終地点を目指すことができたら、どんなに時間と労力の節約になるでしょう。

これは勿論セラピスト自身にとっても言えることです。依存から全体への回帰という一連の流れは、実は何度も繰り返しながら進んでいくものなのです。

依存から自立へと向かうときに全人格的であることはまずあり得ません。ですから、何度も何度も繰り返して依存から自立へと遷移する必要があるのです。

そして今までのところ、残念ながらどうもショートカットは難しいかもしれないと思い始めています。ある程度の段階まで依存から自立へとシフトしてからでないと、その先へ進むのに必要となる自覚を持ち続けることが難しいのです。

この現実が自分の心の奥に抑圧されたものの投影でしかないということを認められるためにも、自立は欠くことのできないものかもしれないと思い始めています。

より正確な表現をすると、依存から自立への進化というのは表面的なものであり、内面的には分離しているということを認めてないということに気づく作業なのです。

これはペンです

日本語で、「これはペンです」というのを英語で表現すると、This is a pen. と言う場合と、This is the pen. というのがありますね。

This is a pen. の方は、これはペンというものだとか、これは沢山世の中にペンというものがあるが、その中の一つだというニュアンスがあります。

それに対して、This is the pen. と言った場合には、これがそのペンです、これは私が前から気に入って使っているペンだとか、先ほど話題に出ていたそのペンです、のような特定の一本のペンのことを指すという意味あいがありますね。

どちらの場合にしても、これはペンですという場合にはもう一つの隠れた意味が含まれているのです。それは、これはペン以外の何物でもない、というものです。

この私がこれはペンですと主張している裏には、ペン以外の消しゴムや定規などではないという主張も込められています。

つまり、ペンだという肯定と同時にペン以外ではないという否定も一緒に併せ持っているということなのです。

ここで主張が込められていると言われても、そんなことはない、客観的事実としてペンだろうと思われるかもしれませんね。

しかし、ここには大変な思い込みというものがあります。人は自分と同じ知覚を持っているのだから、自分と同じ解釈、判断をするに違いないというものです。

これは私の知覚ではペンのように思えるが、あなたがどう判断するかは分からない、などと言わないし、そんなことをいちいち確認しようとも思ってないわけです。

従って、これはペンだと主張したときに、それはペンではないと主張されたりすると、相手を否定したくなるのです。その心の裏には相手もペンだと主張するに違いないという期待が隠されているからです。

ペン以外の何物でもないと言うはずの相手が、ペン以外のものだと言うのですから、このままでは自分の心が矛盾してしまうため、相手の主張を却下することになります。

これが自立しているようでいて、その実自立できてない人間の本当の心の姿なのです。一般的な常識に照らしてみたら、確かにこれはペンですということには概ね食い違いは生じないでしょう。

しかし、この色が好きだとか、このクルマは嫌いだとかいうような個人的な好みや物事の考え方などの範疇においては、人によって自分と相手の違いを受け入れられない人が増えてきます。

自立できてない、つまり分離を認められてない度合いが大きければ大きいほど、依存が強くなると同時に、自分と相手の分離が曖昧であるために個々人の違いを認められないのです。

みなさんは、自分の心の世界とは違う相手のワールドをどのくらい認めることができますか?そうした明確な分離というものを認められて初めて、分離を手放していくという新たな癒しの道が待っているように思います。

諦めること

私達はいくら必死に望んでも、どんなに強く願っても、どうしても叶わないことについては諦めるという心の状態になります。

好きで好きでたまらない相手から交際を断られたら、絶望的な気持ちになってしまうかもしれませんが、最終的には諦めるしかないですね。

誰の人生であろうとも、何でも思い通りになるということはあり得ないわけで、必ず生きていれば諦めなければならない経験を何度となくするわけです。

場合によっては、どうしても諦めがつかないという体験をすることもあるかもしれません。そういう場合は、諦めがつくまで本当に辛い思いをするはずです。

本人の自覚としては、もう諦めたよと思っている場合でも、実は次の二つのケースがあるのです。一つ目は、願いが叶わないということを認めることができた場合です。

これは、そのことにもう未練が残ってない状態であって、これが本当の意味で諦めがついたということなのです。

この場合は、もうくよくよ悩むことからは開放されて、気持ちは案外すがすがしい感じになれるものです。諦めたという言葉よりも、ふっきれたとか、どうでもいいことになったというニュアンスかもしれません。

そして二つ目の場合ですが、これがいろいろと問題を引き起こす原因となるのですが、諦めたつもりでいて、その実、諦められないという本心を抑圧している場合です。

本人の自覚としては諦めたつもりになっていますので、諦め切れなくて苦しいという感覚はなくなります。しかし、心の奥には諦めていないという執着が燻っているわけです。

本人が諦めたと言っても、大抵の場合がこのケースであるのです。この場合の方が諦めたという言葉を使うようです。

ですので、私は諦めたと本人が表現している間は、諦めていないんだなと思うようにしています。勿論100%そうではないですが。

この隠された諦めてない本心は、それを本人に知らせたくてそれ以降の人生においてさまざまなネガティブな現実を引き起こすのです。

どうしてもこの人と結婚したいと思っていた人に断られて、自分はもう完全に諦めたつもりになって、また他の素敵な人を探そうと思っても、いつまでたっても別の人を好きになれないような場合、心の奥ではもしかするとその人のことを諦めきれずにいるのかもしれません。

そのことがブレーキとなって、新たな恋人を作れないでいるということもあるわけです。このように、思ったように人生が進まないなと感じることがあれば、次のようにしてみることです。

自分が今までに諦めてきたと思っているものを一つひとつ洗い出してみて、さて本当に心の底から諦めているのだろうかと疑ってみるのです。

そうやって、うまくすると気づかずにいた過去の執着に気づいて、それを手放すことができたら人生のブレーキが解除されるかもしれません。

頑張り屋さん

世の中にはどうしてそこまで頑張るの?という人がいますね。何でも全力でぶつかって行くというのは、とてもすばらしい生き方だと感じます。

こういう人はどんな仕事に就いても、また何をしても相当にすばらしい成果を出すことができるでしょうし、みんなから賞賛されることにもなります。

オリンピックで金メダルを獲る人、会社で多くの並外れた貢献をする人、一生懸命相手に尽くす人、環境は違えどそういった人たちは大抵充実した人生を送っているように思われます。

しかし、頑張ることで自分が本当に情熱をかけてその過程を心のどこかで楽しんでいるというような能動的な場合はいいのですが、頑張らざるを得ないという心の状態の場合には問題があります。

端から見ているとその違いをあまりはっきりと判別することはできないかもしれません。なぜなら、それは目には見えない本人の意識の問題だからです。

もしも、頑張る目的が、何かそれによって困っていることが解決するかもしれないというような場合には、その作業を本当には楽しむことはできません。

親を喜ばせるため、人に褒めてもらうため、認めてもらうため、お金を儲けるため、寂しさを紛らわすため、こういった受動的な目的のために頑張るのでしたら必ず自己犠牲を伴ってしまいます。

つまり頑張らなければ先行き真っ暗なことになってしまうと感じる場合には、本人が気づいていようといまいとそれは脅迫的な要素が含まれているということになるわけです。

そういう場合には、大抵が少し頑張ることを緩めようかなと思っても、自分で自分をコントロールすることができなくなっているはずです。

こうなると、その頑張りによる自己犠牲がいずれはあだとなり、なんらかの形のつけとなって人生を悪化させてしまうことになります。

自分が頑張り屋さんだという自覚がある人、あるいは自覚がなくてもそういったことを人から言われた経験がある人は、自分のそうした行動を一度は疑ってみることをお勧めします。

そして、もしも自分は頑張ることで精神的にも肉体的にも消耗してしまっているという感じがあるのでしたら、人生を立ち止まってしっかり心の癒しをすることです。

翻訳本が出版されない功罪

「奇跡のコース」という本を読むことをライフワークにしているのですが、残念ながらまだ正式な翻訳本が出版されていません。

原文は英語なのですが、もうすでに各国語に翻訳されたものが全世界的に出版されているそうなのですが、どういうわけか日本ではいまだにそれが実現していないのです。

ただこれこそ奇跡的なのですが、ある人が自力で日本語訳したものがあって、それを手に入れて勉強会でも個人でも利用して読み進めています。

しかし、各国から遅れて日本語版だけが未だに出版されていないことをただ残念がるだけよりも、そのことの功罪というのがあるということに気づきました。

まず困ったこととしては、当然のこととして日本語の本が出版されていないのですから、日本での認知度が上がらないということです。

本屋さんに行って誰もが普通に手にとってパラパラとページをめくって見ることもできません。出版社さんも、英語版だけでは商売として期待することは不可能に近いはずですから、販売促進などに力を入れることもできません。

いわゆる市場性ゼロなわけです。ごく限られたある種マニアックな人たちだけが原書を買うのでしょう。しかし、私の個人的なレベルでは功罪の功の方が勝っているのです。

何と理想的な環境にあるのだろうと最近つくづく思えるようになりました。まず、個人翻訳された日本語の文章も英語の原文もどちらもネット上で見ることができます。

つまり、ファイル化されているということですね。これは一般的な本についてはあり得ないことです。ファイルになっているということは、必要に応じてプリントアウトすることもできますし、パソコンの画面上で読むことも可能です。

単語の検索もできるし、カット&ペーストでいかようにも編集することが可能です。また日本語と英語を同時に見ながら作業することもできるのです。こんな便利な環境は出版されている本ではあり得ないことです。

そして最後に、最大のメリットは、個人翻訳されたものを読んでいるために、ある種この翻訳は正しいのだろうかといういい意味での疑いの目を持ちながら読むのです。

そのために、少しでも意味が分からない部分についてはすぐに英語の原書でその意味を確認するという読み方になったのです。

英語が初めから得意な人は原書で読めばいいのでしょうけれど、そうでない私はもしも正式な日本語の本が手元にあったとしたら、原書を読むということはなかったかもしれません。

こうした読み方を繰り返していると、ただ日本語の文章を読むことに比べて自動的により深い読み方ができるのです。

そういうことを総合して考えてみると、今自分に与えられている環境は恐ろしいくらいに理想的だということが分かります。本当に感謝ですね。

七転び八起き

このブログでも今までに何度もお伝えしてきたことですが、我々の意識というのは100%がエゴなのです。エゴは本当の愛を知りません。

何と過激なことを書いているのかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、我々が愛だと思っているものは、実はエゴが勝手に作った言わばニセモノの愛なのです。

自分と相手は別の心を持っていると認識しているということは、そこには本当の愛はありません。なぜなら、愛はすべては一つという想念だからです。

私たちエゴの意識でも、大好きな人とは身も心も一つになりたいと願うわけですが、しかし願っているという事自体、一つではないと信じているということを意味します。

では私たちに本当の愛は使えないのかというと、確かにそうです。ですが、ニセモノの愛でもホンモノの愛に近い愛があります。

それを使うことはできます。愛に真実の愛に近いとか遠いというレベルがあること自体が、ホンモノの愛ではないと言う証拠でもあります。

でも、ホンモノの愛に目覚めるためには、ニセモノの愛であろうとそれをできる限り使って生きることがとても大切なのです。

ニセモノの愛の特徴は、無条件でもなければ、永遠でもないというところです。どんなに純粋な愛で相手に接しようと頑張っても、相手の態度に辟易してしまったりするわけです。

それがニセモノの愛の特徴です。自分の心がとても穏やかないい状態であると使えて、自分の状態が悪いと使えないというのも、ニセモノの愛の証しですね。

しかし、そのことを否定的に思う必要もありません。自分はエゴだからです。そのことをしっかりと認めてしまえばいいのです。

何度愛で接する事に失敗したとしても、また次は成功させようと続けることが大切です。そうした、七転び八起き的な意欲を持ち続けることです。

そのことを楽しむ姿勢も大事かもしれません。私は年中失敗しながらも、そのことを楽しんでいますし、そうすると次はうまくいく可能性が高くなるのです。