「与える」喜び

このブログでも今まで何度も繰り返し書いてきた「与える」ということについてまた書きたくなりました。およそこの世界で意味があることと言えば、「与える」ということになります。

それ以外には何の意味も見出せません。与えることの真反対は「手に入れる」ということになります。この「手に入れる」ということからは、どんな望ましい結果も起きないのです。

そればかりか、罪悪感や恐怖、そして怒りを継続することになるだけです。何かを「手に入れる」と、その瞬間だけある程度の安心を得ることができます。

しかし、そうした一過性の安心が、その次に何かを「手に入れる」ということへの原動力となってしまうのです。

そしてそれが手に入らないと、恐怖や怒りを作り出してしまうことになります。仮に手に入れられたとしても、場合によって罪悪感を引きずってしまうことにもなるのです。

「手に入れる」行為は、そうした危険ばかりをはらんでいるということに十分気づかなければなりません。気づかなければ継続させてしまうということです。

「手に入れる」ということに執着している意識から自分を解放する一番いい方法は、「与える」側に立って物事を見るということしかありません。

「与える」ことに専念している間は、「手に入れる」ことを忘れることができるからです。だからこそ、その時ばかりは罪悪感、恐怖、怒りなどからも開放されることになります。

そして「与える」心は必ず与え返されるということも真実です。だから「与えた」結果も喜びや嬉しさが満載になるのです。

「与える」喜びのことをこれほどまでに分かっていながら、常にそうできない理由とは何でしょうか。それは、私たちの心に根深く染み付いてしまった与えると損をするという思いです。

「与える」と減る、「手に入れる」と増えるという考えに乗っ取られてしまうと、「与える」ことができなくなってしまうということです。

こうしたいただけない昔ながらのクセに気をつけながら、ただ「与える」ということを選択できるように意図しながら生活できるといいと思います。

「手に入れる」ことはエゴを救うことになり、「与える」ことは自分を真に救うことになるのですから。