何かが面倒をみている

日本語で、「昨日一人で浜辺を歩いていたら…」のような表現をして、通じないことはありません。しかし、勿論正しい日本語表現であれば、主語としての 「私が」というのが入らなければなりません。

英語で、主語である「私」が抜けることは100%ありえないことですね。それがどんなに簡略された口語であろうともです。

そこには、確固として「私」が存在すると共に、それを表現せずにはおかない文化があるのですね。その違いはどこからくるのでしょうか。

これは私の勝手な憶測なのですが、日本の文化では「私が」というのを連呼するのを嫌う国民性が根付いているのではないかと思うのです。

私がやった、私が考えた、私が愛している、のように何にでも「私」が強調されると、あまり好ましくないという感覚を持っているのです。

実際、「私」を沢山言うのは政治家だったり、その他押しの強い人たちなのではないでしょうか。場合によっては、「私は…」から初めて、その後に続く述語などの言葉がそぐわないことを言っている人が時々います。

最近ではあまり良しとされなくなった、控えめな人や謙虚な人ほど、「私」を強調することはないはずですね。

それで思ったのですが、日本人は単に謙虚なだけではなくて、実は「私」が不在であっても事は同じように起きるということを古来から知っていたのではないかと。

つまり、この「私」がそれを行っていると思っているのは思い込みに過ぎず、何かがその面倒をみているということをどこかで分かっているということです。

自分が行為者ではないということに気づけば、あらゆる束縛から解放されることになるのですが、そのことに一番気づいているのはもしかしたら日本人なのかもしれません。

主語を省略することがいいことだとは思いませんが、これはとても大切なことかもしれません。何かに没入すると、そのエネルギーが他のことの面倒を見てくれるのです。

そうしたことを体験した人は多いのではないでしょうか。

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