自由であるために必要なこと

今年に入ってすぐの事だったと思うのですが、オーム真理教元幹部の容疑者が自首して逮捕されるということがありましたね。

突然のことでその記事を見たときには、意外な感じがしました。どういういきさつで自首することになったのかは分かりませんが、逃亡生活17年(?)というのは大変な束縛だったはずです。

一見すると、捕まって留置場に入れられているよりは、自由があるんじゃないかという気がしますが、よく考えて見るとそんなことはないと分かります。

自由とか不自由、つまり束縛というのは物理的なこともさることながら、心理的な要因の方がはるかに大きいのではないかと思うからです。

監獄に入っているのは、外に出られないという点では束縛されていますが、何からも逃げずにいることができるという点では、圧倒的に心は自由なはずです。

そういう観点で見れば、私は逃亡生活ほど心に堪(こた)えるものはないのではないかと思います。常に捕まらないように注意を払っていなければならないのですから。

ところで、逃亡生活というのは、何も、逃げ続けている容疑者に特有のことではなく、私たち一般人であっても心理的逃亡を常にしている可能性があるのです。

一体何から逃亡しよう、あるいは逃亡しているのかと言えば、それは自分にとって恐ろしいもの、とても正視したくないようなもの、などです。

もしも、私たちが何からも逃げずに、日々何がやってこようとただそれをありのままに迎え入れることができるのなら、これほど自由な人生はないはずです。

実際、私たちが感じるあらゆる苦悩というのは、何かから逃げようとすることが原因であると言ってもいいのです。従って、自由である人とは、苦しみとは無縁なのです。

自由であるとは、あらゆる痛みに背を向けずにいること、傷ついてもいいという思いでどんなものにも対峙することでのみ、得られるものなのですね。