好き嫌いは思考が作り出している

私たちは、生きて生き延びるという生存(防衛)本能を、他のあらゆる生物が持っているのと同じように持ち合わせています。

それは一生物の種として当然のことであり、それには何の問題もありません。しかし、人間だけが自我を作ったことによって、その本能をありうる限りに拡張してしまったのです。

それは思考による自己防衛を作り出したということです。そして、残念なことにそれが必要以上の苦悩を作り出す結果となってしまっているのです。

例えば、私たちには好みというのがありますね。あの人はいいけど、あの人はどうも馬が合わないとか、フィーリングが違うというようなことをよく言います。

そしてそれは、感性によるものだから仕方のないことだとして選り好みというものを正当化しようとするわけです。

けれども、その多くが実は思考によって拡大されてしまっていることに気づかないでいるのです。生まれ持った気質による志向の何倍もの大きさにして、新たな好き嫌いを付加しているのです。

私は子供の頃に異常なほどの偏食をしていました。食べるものといえば、玉子焼きとヨーグルトくらいだったと記憶しています。

それにはいろいろの理由が考えられるのですが、偏食のほとんどはいわゆる食べず嫌いというものだったと思います。

つまり、もう自分には大好きな食べ物があるので、それ以外のものを冒険して食べて、いやな思いをしたくないという思考によって、偏食を続けていたということです。

幼い子供が苦味のあるものを食べないのは、多分に本能的な拒絶によるもので、これこそ正当なものだと言ってもいいのです。

しかし、人間とは食に対する貪欲さが強いために、大人になると珍味などの苦味も好物になったりするのです。これは、思考によって好みを反対方向に変えていった例だといえます。

また、ゴキブリが怖いのは仕方のないことだと思っているかもしれませんが、あれこそ思考による恐怖を作り出しているいい事例なのです。

その恐怖は動物的な本能が生み出す生まれながらの怖さというよりも、思考によって作り出された後天的なニセモノの恐怖なのだということに気づくことです。

人間だけが思考を利用して、こんな余分な苦しみを味わう始末になってしまったのですが、一方で思考を使って自己防衛とは反対方向に意識を向けるというすばらしい面も持ち合わせているのです。

それは、生物としての本能には逆らうようなことになるのですが、それこそが死の恐怖から逃げずに、それを最も身近に感じるということを通して気づくことのできる、本当の安らぎなのです。