人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている

最近、「神の恩寵」という言葉をよく使うようになったのですが、これほど便利な言葉はありませんね。なぜなら、説明はできないけれど嬉しいことが起きた時はすべてこの言葉を当てはめればいいのですから。

けれども、私の個人的な感覚においては、神の恩寵などというものが本当にあるとは思えません。それには、あまりにも人間的な匂いがするからです。

例えば、起きることだけが起き、起きないことは起きないというのが神のシナリオであるとすれば、覚醒できるシナリオを持っている人だけが覚醒できることになります。

そうした星の元に生まれてきた人は、間違いなく神の恩寵があるということになるわけです。なぜその人が覚醒することになったのかを説明できないので、恩寵によるとして済ますのです。

こうしたことは、私たちの理性があらゆる物事に理由を求めるという性質から来ているのではないかと思うのです。

我々の思考は、すべてに原因とその結果があることを要求します。しかし、真実はどんな思考にも届かないところにあるので、原因や結果という概念をそもそも持ちません。

したがって、神が何らかの理由によって、恩寵を与えるということは、原因を常に探してしまう思考が作り出したものだと言えます。

意思、意図、そして選択ということにはそもそも時間を必要とするのですから、真実の中ではありません。つまり、神には意思も意図も選択もないのです。

自分の本質である純粋な意識に注意を向けていると、そこにも何の意思もないということがはっきりと分かります。

大海原があって、その海面に無数の波がそのシナリオ通りに起きては消えていきますが、そこにどんな理由があるのでしょうか?あるはずもありません。

それと同じことです。私たちが生まれて死んでいくこの人生についても、目的もなければ、それに付随する原因と結果もないと思うのです。

だったら、人生に意味を見出そうとなどするのは、笑えてくるというものです。ただ、唄って踊って、この現象世界を楽しめばいいのではないかと思います。