真実を少しだけ知ることはできない

夕べは久しぶりに両親と家内とで外食をして、帰宅してからしばらく4人で話し込んでいたのですが、ほんの少しだけこのブログで日々綴っているようなことを話してみたのです。

結果は、惨敗ですね(笑)。災害などが来そうだということで、不安な気持ちがあるらしいので、少しでもそれを解消してあげられたらと思ったのが間違いでした。

やはり、私たちの本当の姿について、どうやっても伝えることはできませんでした。家族が相手だと、お互いに甘えが入るせいか、とても難しいと感じます。

自己探求というのは、今まで培ってきた様々な知識の上に、また一つ大切なことを追加するということでは全くないのです。

真実とはそういうものではありません。あの人はピアノが得意だけど、この人は科学に詳しい、というような類のものでもありません。

真実に詳しい人など、この世界には一人もいません。真実のエキスパートだとか、真実を伝える人というのも本質的にはいません。

なぜなら、真実とは言葉で伝えることのできるようなモノではないからです。真実について、少しだけかじっているとか、あの人よりは知っているなどという比較も無意味です。

真実は全体性であって、部分的に理解するということはできないからです。人生の中で、真実を垣間見るチャンスというのは、きっと誰にでもやってくるはずです。

それは、お金持ちになるチャンスやノーベル賞を受けるチャンスがやってくるということとは、全く違うのです。

真実に気づくチャンスがやってきても、それに気づかずにいる人が沢山いるというのも事実かもしれませんが、それはそれでいいのだろうと思います。

そう考えると、家族は家族の生き方を自ら選んでいるわけだし、自分は自己探求に熱烈なエネルギーを持っているというだけなのですから。

誰がどんな人生をどう生きようと、それらすべてが真実という器の中で育まれて推移しているだけなのですから。