苦しみを乗り越えないこと

幼いときに、ころんだりして足を擦りむいて泣いていると、お母さんが「痛いの痛いの飛んでけ~!」と言ってくれて、それで不思議と痛くなくなることがありました。

ところが、この心温まる母親のおまじないの威力も、そう長くは続かなかったと思います。すぐに、「そう言われたって痛いものは痛いんだ!」となったはずです。

そうなってくると、今度は別の戦略を使って何とか痛みを遠ざけようとするようになります。例えば、この痛みを誰かのせいにするとか…。

私なんかは、今だに身体のどこかを家具などにぶつけると、その家具のせいにしたりします。その家具がここにあることが悪いと思ってみたり…(笑)。

あるいは、誰かがそれをここに置いたからこういうことになったのだと他人のせいにするのです。そうしたところで、痛みそのものがなくなるわけではないのですが、ほんの少し気が紛れるのです。

ほんの一ミリでも効果があれば、私たちは貪欲に戦略を使うものです。それほど、痛みや苦しみを敵対視しているということです。

人生とはそうしたことの繰り返しです。気持ちよくなるものや欲しいものを求めて、苦痛や都合の悪いものを遠ざけることの繰り返しです。

苦しみや痛みを遠ざけようとするだけではなく、それを乗り越えようとすることも戦略として持っています。

それが成功すると、遠ざけることでは決して得られなかった充実感や達成感、それに自己評価が高くなるというおいしい思いを手に入れられるからです。

しかしそれは、都合のいいものを手に入れたいという願望と何ら違いはありません。その証拠に、しばらくするとまた苦悩は訪れてきます。

苦しみを遠ざけようとせず、さりとて乗り越えようともしないでいるという選択肢があるということに気づくと、人生は違ったものに見えてきます。

それは何事とも闘わないということです。その苦痛をただそのまま見るということです。どんな戦略も使わないということです。

何であれ、それを乗り越えるということは闘いであり、乗り越えた喜びに浸っている間は、これが幸せだと錯覚すらできますが、しばらくすると化けの皮が剥がれてくるのです。

そうすると、またあの喜びを手に入れようとして無意識的に苦しみをでっち上げることになり、そうやって次の戦いにまた巻き込まれて行くのです。

この終わりのない戦いが、外側に投影されたものが人類の戦争に違いありません。戦争をやめるためにも、一人ひとりが苦しみを乗り越えるのをやめることが必要なのです。