生きるとは一瞬の出来事

外を歩いていて、興味をそそられるというのか、目に留まるのは幼い子供と犬などの動物です。その両者がいつも印象に残るのです。

彼らの特徴は、社会生活を営んでいないということですね。その可愛らしい瞳を覗くと、彼らには自分を守ろうとする意志がないように感じます。

動物に無邪気という言葉を使うのは、変かもしれませんが、いずれにしても犬も幼子も自分が誰かということに気づいていません。

私たちは、彼らに対して、まだ気づいていないのだというように見てしまいます。けれども、本当はそうではありません。

まだ気づいていないのではなく、余計な妄想を抱いていないということです。動物は死ぬまでそんな妄想を抱くことはありませんが、人間だけが3歳くらいまでに「私」を作るようになります。

一旦「私」がいるという妄想ができてしまうと、少しずつその「私」を自分の力で守らねばならないと信じるようになっていくのです。

その結果、「私」の次にもう一つ妄想をでっちあげることになります。それが「社会」です。「私」を守るためには、その「社会」に順応する必要があると思い込むのです。

そうしないと、「私」を守ることができないのですが、それはこの「私」にとって過酷な人生の始まりを意味します。

なぜなら、社会へ適応するためには素の自分を犠牲にしなければならないからです。人生の初めに「私」を作ってからまだ間がない頃は、そのことでひどく辛い思いをするので、多くの若者は絶望を感じます。

そこからなんとか、自分なりの解決法を見出して生きていける人は、死ぬまで「私」と共にいる人生に疑問すら感じないかもしれません。

けれども、どうにもこうにも何かが変だと感じ続ける人は、「私」が本当はナニモノなのだろうということを無視できずに生きることになるのです。

そしてその中のある人たちは、思考では到達することのできない真理を知ろうと頑張ることになります。

「私」として生きるのも、「私」を疑問視して生きるのも、そして「私」はいないと気づいて生きるのも、どれもきっと一瞬の出来事であることに違いはないのでしょうね。