「愛」とは自発的で一人称である

私たちは、誰もが個人的な好みというものに支配されていますね。食べ物の好き嫌いであるとか、他人に対する好き嫌いもそうです。

どんな対象物であっても、そして自分自身の身体や心の在り様にしても、同様にして好き嫌いというものを持っています。

そして、好きなものには興味をもって接するはずですし、関心も高くなります。その逆も言えるのかもしれません。

興味を抱いた対象、とても関心をもっているものや人に対しては、好きという傾向があるという事実があります。

たとえば、好きだなあと感じる異性のことについては、いろいろと関心を持って知りたくなるでしょうし、また興味を持って見ているうちに、その人のことが好きになるということもあるはずです。

けれども、この好きとか嫌いというレベルにおいての「好き」という感情と、純粋な「愛」とは全く異なるものなのです。

その違いの一つは、「好き」は関係性の中で起きる感情ですが、「愛」はそこに何の関係性も必要とはしないということです。

また「愛」は、自発的なものであって、それ自体で完結してしまっています。主体と対象を必要としないということです。愛は一人称なのです。

そしてもう一つの違いですが、「好き」には本人が気づいていようがいまいが、何らかの理由があるのですが、「愛」には何の理由も必要ありません。

以前、あるセミナーに参加していたときに、エゴを押しのけて自分の中にあった「愛」が表面化したと思われることが起きたことがあったのです。

そのとき、自分とは何の係わり合いもない、初めてお会いした多くの周りにいらした人たちへの愛を感じたのです。彼らとは、何の関係性もなかったし、愛を感じる何の理由もありませんでした。

あくまでも自発的に、愛がやってきたという感覚でした。付け加えると、愛の一つの形である「感謝」も同じようにして、やってくるものですね。

私の教訓は、本当に大切なことは何の理由もなく訪れるものだし、それは自発的で一人称のものだということです。