思考によって真理を示そうとすれば、必ず矛盾が生ずる

自己探求の過程において、自分の信じてきた信念体系を脇に置きつつ、真理に近づいていけばいくほど、必ずさまざまな矛盾に出会うことになってしまいます。

それはなぜかといえば、探求の途中で思考に基づく理性を使おうとしてしまうからです。思考の枠の中で真理を捉えようとすること自体が不可能なことなのです。

それが分かっていながらも、気がつくと思考の中で真理とはこうなのだというような、「理解できるもの」として真理を掴もうとしてしまうということなのです。

どれほどすばらしい経典や聖典であったとしても、エゴが発明した言葉によって真理を表現することはできないのです。

それでも、私たちは何か意味のある事柄を誰かに伝えようとすれば、必ず言葉を経由せざるを得ないために、どうしても矛盾が発生するように見えてしまうのです。

例えば、私は長い間のセラピストの仕事を通して、クライアントさんに向かって、人生で遭遇することは自分の心の投影なのだということを伝え続けてきました。

心の中に怒りが膨れ上がっていれば、必ず怒らずにはいられないような現実がやってくるというようなことです。

このことを理解することによって、クライアントさんは長い間の被害者意識から抜け出せるようになるのです。

なぜなら、自分の身に降りかかる問題の原因を外側に見出そうとすることをやめるようになるからです。すべての要因を内側に見出すようになるのです。

そのことによって、人生が大きく変化してきます。このことは、あるレベルにおいては、確かに真実であるということができます。

けれども、より本質的な真理を見ようとすれば、ブッダが言ったように、すべての物事は自動的に起こり、そこに行為者は一人もいないということも真実なのです。

このことは、現実とは内面の投影だということと一見矛盾しているように感じてしまうのですが、この矛盾はどこにあるかといえば、それこそが思考の中にこそあるのです。

どれほど崇高な思考であろうと、真理はその外側にあるということを思考によって本当に理解することができれば、矛盾するように思えることでも、ただそれを受け入れることができるようになります。

一分でもいいですから、思考をなるべく止めてみることです。そうすれば、疑問も質問も、問題も矛盾も、何も無いというところに行くことができます。

思考が真理の探究を心底断念するとき、真理はその先で待っていてくれるはずなのです。