思考こそが、この自分の正体

私たちは、頭を使って絶えずあれこれ考えを廻らしています。つまり思考するということに大変なエネルギーを費やしているのです。

このことは、誰にでも大抵は理解できることですね。けれども、「私が思考する」というのも、「私」というのも、共にそれ自体が思考だったということに気づいている人は少ないのです。

つまり、「私が思考する」のではなくて、「私」こそが思考だったということです。だからこそ、思考が停止している熟睡中は、「私」も停止することになるのです。

私たちはそのことを意識がなくなるというように捉えていますが、本当に意識がなくなるのではなくて、思考が停止しているだけなのです。

もしも、本当に意識が停止していたとしたら、寝入ったと同時に目覚めたという感覚にならなければならないはずです。

けれども、私たちは目覚めたときに、寝入ってからある一定の時間が経過したということをどこかで分かっていますね。それは、意識が絶えることなく継続しているからです。

従って、目が覚めるということは、意識を取り戻すのではなくて、停止していた思考が再開されるということなのです。

でもここで、一つ大きな疑問がやってきます。それは、もしも私が思考しているのではない、私が思考を作り上げているのではないなら、一体誰が思考を発生させているのかということです。

ここにきて、ようやくブッダがかつて言っていた言葉の意味が分かるようになるのです。「すべての物事は自動的にただ起きているだけ」と。

誰かが思考するのではなく、思考そのものがただ起きていただけだったのです。それは誰のものでもないのです。

この世界の一切合財は現象が起きる場だとも言えます。それは、物質だけではなくて、空間も時間も、そして思考や感情もすべてです。

私はこの私としてあるのではなくて、思考として起きているだけだったというわけです。そして、この文章で言わんとしていることもすべてが、思考として起きたことなのです。