瞑想という実験

科学というのは、客観的なある対象に対して、様々な実験を何度も繰り返していきながら、期待する結果を得ることによって、打ち立てた理論を証明しようとする分野ですね。

あくまでも実験によって、理論を証明するということです。どんなに、すばらしい理論を打ち立てたとしても、それを誰もが実験によって確認することができなければ、何の価値もなくなってしまうからです。

真実を探求しようとすることは、そのことと似ているように思うのです。どれほどすばらしい経典を読んで理解しても、実験して検証していくことがなければ、1ミリも真実へは近づけないからです。

ただし、探求の場合は、科学とは根本的に違う点がいくつかあります。科学は、観察する主体と、観察される客体と、実験という三者が必要となるのです。

一方、自己探求の場合には、観察する主体と観察される客体が一つであり、心の内側における完全なる一人称での実験だからです。

そこには、どんな客観性も存在しないのですから、どうしたって手探りで進めていくしか方法がないのです。瞑想の専門家ではない私にとって、今瞑想とは一つの実験に違いないのです。

瞑想という実験を重ねながら、内面がどのように在るのかを観察しているのです。とても骨の折れるまどろっこしい実験のような面もあるし、これほど興味深い実験もありません。

先日、朝クルマを運転しているときに本当に久しぶりに腹痛がやってきて、ハンドルを握っている手が毒出しで痺れてどうしようもなくなったことがあったのです。

それがあまりにも苦しいので、自動的に自分を全面的にその苦痛へと向けるしか方法がありませんでした。ほかのことは、もう何も考えることもできないくらいになったからです。

すると、その日の夜から数日間というもの、あっという間に深い瞑想に入れるようになったのです。ベッドに横になっても、寝入る前にさえも深い意識状態へと入るようになったのです。

残念ながら、そのような状態は、数日で消えて行ってしまったのですが、もしかすると全面的に何かに意識が向かった状態を経験したことが原因なのかもしれないと思うのです。

苦しいのはいやですが、何であれ全面的にというところがミソなのかもしれません。これからも実験は続くはずです。

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