昨日のブログでは、イエスでもノーでもない、どちらとも違う「受容」について書きました。このことについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。
イエスは肯定的であり、ノーは否定的であると誰もが判断するのですが、実はどちらも何かの部分についての反応であることは明白ですね。
つまり、イエスというのはあるものへの肯定を示してはいるのですが、それはその逆のものへの否定が暗黙のうちに表現されてもいるわけです。
ノーというのもそれと全く同じことが言えます。ノーとは、あるものへの否定を示すと同時に、その裏では真逆のものへの肯定が含まれているというわけです。
結局、イエスもノーも極端を言明することになるのです。どちらかがまっ黒であれば、その真逆は真っ白であって、その極端のどちらかを支持することになるのが、イエスでもあり、またノーでもあるのです。
普段私たちが何気なくイエスとかノーと言った場合には、どちらにしても極端を標榜していることになることに、気づく必要があるのです。
一方で、あなたが物事をあるがままに受け止めるなら、つまり「受容」するならば、あなたは物事の中央へと投げられるのです。
イエスもノーも思考の中にあるのです。思考は、極端へとマインドを導くことになるのです。あなたの意見、あなたの主張、あなたの主義、こうした思考は必ずあなたを極端へと持っていくのです。
そしてあなたが思考の外へと抜け出した時、つまり無思考(受容)においてのみ物事の中道にいることができるということです。
物事の部分を受容するということが、すぐにそのまま全体性へと意識を向けることになるのです。もしもあなたが、あなたのどんなマインドの部分であっても、そのままに受け止めることを続けていくならば、あなたは必ず全体性としての自己に気づくようになるでしょうね。
それは、あなたの中心がそのまま宇宙の中心になるということです。