「服従」のイエスは危険

人の反応というのは、大抵がイエスかノーですね。たまには、そのどちらでもないということもありますが、概ねイエスかノーで答えるわけです。

そして、正直にノーが言える場合は問題がないのですが、心ではノーであるのにもかかわらず、言葉ではイエスと言ってしまう場合もあるはずです。そうしたことが続くと、精神的な問題が起こってくるのです。

人がイエスと言う場合、大きく分けて三つのケースがあると思われます。その一つは、「賛成」という気持ちで言う場合のイエスです。

このイエスの場合には、正直に相手に対して同意しているのですから、何の問題も発生することはありませんね。あなたと私は同じ考え、同じ気持ちなのですから、事は丸く収まるわけです。

その次のイエスは、「服従」する気持ちで言う場合のイエスです。この場合は、本当はノーであるという正直な気持ちを相手にも、場合によっては自分にも隠したうえで、イエスと言うのですから、そのつけはいずれやってくることになるのです。

この「服従」のイエスは、職場におけるセクハラやパワハラの被害に遭うような場合のイエスでもあり、弱い立場の子供が恐怖で親のコントロールに従う場合のイエスでもあります。

こうしたイエスは、必ず自己犠牲を積んでいき、その結果いつかそれは必ず怒りとなって、噴火することになるはずです。その場合の怒りは大変なものになるでしょう。もしも怒りが噴出しなければ、重度の鬱が待っています。

三つ目のイエスは、「受容」の気持ちで言う場合のイエスです。これは、賛成でも反対でもなく、肯定も否定もなく、勿論判断も比較もない状態でのイエスなのです。

もしもあなたが、この「受容」のイエスによって生活することができるなら、人生はきっと途方もなく素晴らしいものへと変貌するはずです。

この「受容」のイエスは、正直な「拒絶」の表現としてのノーと比べても、遥かに優れています。順番で表せば、「服従」のイエス<「賛成」のイエス<「拒絶」のノー<「受容」のイエス ということになりますかね。

そして、「受容」の場合には、イエスという言葉よりも、受け止めていますよというニュアンスの別な言葉を使うのかもしれません。

あなたは日頃、「服従」、「賛成」、「拒絶」、「受容」のどれを一番多く使って生活していますか?一度検証してみることをお勧めします。