真実は体験できない

精神的な探求、あるいは真の自己探求とは、他のどんな探求とも根本的に異なるものです。なぜなら、それ以外の探求とは何らかの体験をすることだからです。

私たちは、この世界に生れ落ちてからずっと体験をし続けています。人生とは、体験し続けることであると言ってもいいかもしれませんね。けれども、自己探求とはいかなる体験もそこにはありません。

なぜなら、自己探求とはその体験するものを探求することだからです。したがって、瞑想は体験ではないということです。瞑想を体験するということは不可能なことなのです。

それなのに、自分が瞑想しているときには、身体がずっしりと異常なくらいに重くなってみたり、逆にどこか重力が軽くなったかのような感覚になったりと、それこそ様々な体験がやってきます。

そうした体験をしている限りは、それを真の瞑想と呼ぶことはできません。とても気持ちがよかったり、ごく静かで深みのある静寂を感じることもあるのです。

が、それもすべてはそうした体験をしているだけなので、それは瞑想ではないのですね。残念ですが、私という体験者はどこまでも執拗に存続するのです。

私の本質は純粋な意識であり、その意識に浮かんでくるものこそが体験なのです。意識が一時的に纏うもの、それが体験なのです。

そして本当の自己探求とは、その意識そのものを探求することなので、そこには体験というものはないのです。体験が無くなったときにこそ、時間も空間も消え失せるのです。

真実を体験することはできないのです。真の至福は体験ではありません。真の静寂も体験することができません。真実とはそれそのものだからです。