自己同一化がはずれれば、「私」は消える

瞑想とは何ですか?と聞かれたら、何通りもの答え方があるように思うのですが、例えば、「自己同一化がはずれること」と表現することもできるのです。

もしも、自己同一化がはずれてしまえば、「私」は○○だ、ということができなくなるのですから、「私」というエゴが同一化によって成り立っているということが明白になるのです。

仮に、身体がなければ私たちはどのようにして「私」を生み出すことができたでしょうか?きっとできなかったに違いないのです。

幼児の頃に、常に身近に自分の身体があったからこそ、それを自己同一化することによって、この「私」というものをでっち上げることができたのです。

その後は、マインドへの自己同一化によって、「私」を成長させたのです。同一化がはずれたならば、身体の痛み、心の苦しみから解放されてしまうでしょうね。

なぜなら、エゴは「私」の身体が痛い、「私」のマインドが苦しいというようにしか、受け取ることができないからこそ、そこから救われることはないのです。

同一化がなくなれば、ただそこに身体の痛みがある、マインドの苦しみがあるというように、ただあるがままをそのままに見るだけになるのです。

本当の救いとは、自己同化がはずれて、「私」が不在であることに気づくことしかないということですね。瞑想とは、その状態になることを意味するのです。

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