誰かになろうとしない

自我というのは、思考によってでっち上げられたものなので、実在するものではないのです。

だから心のうちは常に暗澹としているのです。自我の努力というのは、何とかしてしっかりとした誰かになろうとすることなのです。

社会で認められる人、心のやさしい人、何かの能力に抜きん出ている人、誰からも好かれる人、人格者等々。

こうした理想的な自分像を掲げて、絶え間ぬ我慢と努力を重ねて、何とかそんなピカピカな自分になろうと奮闘するわけです。

それが自我の習性であることを深く理解すること。自我として生きている限りは、大なり小なりこうした原動力を持っているのです。

ところが自我は一つ隠していることがあるのです。それは、本当にそんな自分になってしまったら、それはそれで困り果てるのです。

なぜなら誰かになろうとする目標がなくなってしまえば、それこそ自我の生きる原動力が消えてしまうからです。

つまり誰かになろうとしてなれないことで自己嫌悪になると同時に、なってしまったらなったで路頭に迷うことになるのです。

ただ在ることにくつろぐことができたら、誰かになろうとすることもなく、自然と自我は小さくなり、あらゆる奮闘努力、そして不安から解放されるのですね。