ただすべてを見守る

禅の方式は単純だ–非行為、無為。何もせずに静かに坐ること–外も見ず、内も見ず、まったく何も探さずに、ただ自分自身でいること–すると、その瞬間に、仏陀が知られる。仏陀はあなたの存在そのものだ。仏教の”仏陀”は、他の宗教で”神”が意味するものとまったく同じだ。

by osho

私たち人間にとって、もっとも難しいことは何もしないことです。たった1分と言えどもじっとして何もせずにいたら、すぐに何かの考えが浮かんできます。

何もしないのですから、考えることもしないはずなのに、気がつくと何かを考えている自分がいます。

身体を動かさずにじっとしていることだけでも、それほど長い時間はいられるものではないですね。

つまり自我というのは、何かをし続けることで生き延びるものなのです。何もせずにただ在り続けると、自我は発狂しそうになるはずなのです。

そして最終的には自我が消えていくことになるのでしょうね。けれども、そんな荒療治をせずとも、少しずつ自我のいない雰囲気を感じられるようにはなります。

それが瞑想だったり座禅だったりの練習を通して身につけていけるものです。もしも思考がやってきたら、それをただ見守ることです。

↑上で言っている「ただ自分自身でいる」とは、ぼーっとしていることではなく、意識的な状態でいるということです。

それが見守るということです。私たちの本質は覚醒した意識だからですね。