不可能性は救う

目的地は存在しない、だから誰も道に迷うことはできない–。それをあなたのハートに浸透させなさい。それを矢のようにあなたに貫かせなさい。<生>に目的地はない!だから、それは取り逃がしようもない。

by osho

道に迷うことは不可能、取り逃がすのも不可能。不可能なことを、起きるかもしれないとビクビクしながら生きる事くらい馬鹿馬鹿しいことはありませんね。

1%でも可能性が残っているなら別ですが、100%不可能なのですから、もうどうしようもありません。つまり観念するしかないのです。

完全に諦めることができると、人はこの上なく安らかなマインドになることができるのです。もうどんな戦いもチャレンジも必要ないのですから。

ということで、人生にはどんな目的も目的地もないというのですから、一体何を不安になったり怖くなったりする必要があるのでしょうか?

生まれたからには十二分に生きて、そして死ぬ。ただそれだけだと気づけばいいのです。

結局、間違った人生もないし、正しい人生というのもない。人の人生を幸せにすることも不可能。もちろん不幸にすることも不可能。

自我が愛に目覚めるのも不可能だし、あなたの自我をどれほど磨いたとしても、天使になることは不可能なのです。

不可能ほど、心底ホッとして救われることは他にはないですね。だから、不可能性万歳!なのです。

自我に光は見えない

自分が歩んできた人生という道をゆっくりと見つめてみると、何一つ無駄なこともなかったし、すべてが今日のために起きたことだと気づきます。

もちろんこれは自我としての自分の感想でしかないのですが、無駄なことがないと言っても、意味のあることが起きたということではないのです。

ただただ物事が起きて、その結果今があるということです。足りないものもないし、余分なものもないということ。

楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、辛いことも、とにかくそういったすべてが完全ということです。

誰かに会ったり、誰かと別れたり、希望が叶ったり、絶望したり…。そんな中いつも一緒だったのが、「私」という自我。

彼のいいところも悪いところも、カッコいいところもダサ過ぎるところも含めて、彼と別れなければならない時のことを思うと、愛しさも感じたり。

彼の中の執着が一頃よりもだいぶ小さくなってきていることに気づいて、このまま安らかに眠れるといいなと。

彼が逝った後は、闇が消えてすべてが光となることでしょうね。それを見ることができない彼はさぞ残念でしょうけれど…。

「私はいない」ですべて解決

「私はいない」があなたの内に定着してたら、突然世界は消滅する。「私はいない」と知ることは、何をする必要も、何になる必要も、何を所有する必要も、何を達成する必要もないと知ることだ。”自己”がなければ、野心は関連してこない。”自己”があれば、野心が関連してくる。

by osho

↑突然世界は消滅する…、これはどういうことを言わんとしているのでしょうか?本当にこの世界全体が消えてしまうのでしょうか?

実はあなたが思い描いているこの世界、あなたが知っていると思い込んでいるこの世界、つまりあなたの思考が作った世界が消えるのです。

私たちが描いているこの世界は、自我が価値を見出そうとすることが底支えしているのです。

そのためには、より良い世界、より良い人間、よりよい成果、そういった未来への期待が必須になるわけです。

あなたが生きる原動力としてきたもの、それがあなたが創作したこの世界と結びついているのは当たり前のことですね。

「あなたがいない」という真実に目覚めてしまうなら、そうした一切合切が不要になってしまうのです。

結果として、自我は実在しないということを見抜いたなら、何もかもがガラッと変わってしまうのです。

それでも他人の自我から見れば、毎日が淡々と過ぎて行くように見えるだけなのでしょうね。

最大の気づきとは…

自我は薄々自分がいないということに気づいているのです。それは最大の秘密であり、決してバレてはいけないのです。

そのことだけは隠し通さねばならないので、おのずと必死さが現れてくるのでしょうね。隠すための有効な手段として、恐怖心を利用するのです。

自分の内側深くに入っていって、そうした事実を見られては困るので、ある程度のところまでくると怖くなって、それ以上先には進めなくするのです。

瞑想をしていて、なんだか怖いなと感じることがあるとしたら、きっとこうした理屈があるのです。

なので、それはいいところまで行っているとも言えるわけです。そこを見たら危険と書いてあれば、それ以上は進めなくなってしまうのです。

よくよく考えてみれば、なにも好き好んで自分はいなかったという地点までいく必要などないだろうとも考えるかもしれません。

ひとまとまりの個人などというものは存在しないということを、あらゆるアプローチを用いて気づいてしまえば、すべての苦悩から解放されるのです。

生きている理由が一つあるとするなら、そのことに気づくことです。その気づきによって、同時に宇宙のすべてを知ることにもなるのですから。

見ることなしに眺める

どんな判定もなしに、ただあなた自身の内に坐り、そして眺める。

何を見ることもなしに眺めること。眺めれば眺めるほど、見出すものは少なくなるものだ。

深く目をやればやるほど、思考は姿を消す。ひとたびこれを知ったなら、鍵はもうあなたの手中にある。

by osho

私たちが何かを見る時、それは自我を通して見ているということに気づくべきなのです。

ただ見たようなつもりであっても、実際には一瞥しただけであって、その後は自我の独断と偏見によって彩られたものを見たことにしているのです。

↑上で言っている「何を見ることもなしに眺めること。」とは、自我の目を通して見るのではなく、ただ眺めることだと言っているのです。

「眺めれば眺めるほど、見出すものは少なくなる」とは、自我の目を通さずに見ることができれば、自我の判断や裁きがなくなっていくということ。

「深く目をやる…」とは、ただただ見つめるということであり、そうすることで自動的に思考の介入がなくなっていくのです。

深く目をやることで、客観的に見るということよりもむしろそれと一体になっていくニュアンスを感じ取る必要があるのです。

たとえば、部屋の中で独り静かに坐り、目の前の壁をただ見つめてみるのです。ただただ眺めていると、ふいに壁との距離が曖昧に感じられるかもしれません。

私が壁を見ているということが事実ではなく、単にそう思い込んでいただけだと気づくかもしれません。それは単に思考の解説だったということです。

そこに見出すものは何もなくなり、どんな意味も価値も一切が消え去ることを実感できるはずなのです。

不幸を根絶する方法

この世から不幸をなくしてしまう方法が一つだけあるのですが、それは何だか分かりますか?

とてもシンプルなことなのですが、あらゆる物事に対して期待するのをやめてしまえばいいのです。

期待すれば、その期待が叶わなかったときに、不幸がやってくるからです。期待通りの現実がやってきたとしても、すぐに次の期待を作るのです。

そしてその期待の連鎖は100%必ずいつかは破れることになっているのです。また期待が大きければ大きいほど、やってくる不幸も大きくなるのです。

期待というのは、すべてが未来があるという前提です。したがって期待すれば未来がとても大切なものになってしまうのです。

今この瞬間がおろそかになってしまうのも、期待のせいだと言っても過言ではありません。

ではどうやって期待をなくせばいいのでしょうか?期待しないように努力するという方法もなくはありません。けれども、それはきっとうまくいかないでしょう。

本命は、期待してしまう自我をいつも見守ってあげるということです。期待する自分に気づいていられるなら、次第にそこから逃れることも可能になるのです。

期待が落ちるとき、同時にあなたの自我も落ちていくことになるのですね。

防衛に気づくこと

人が生きづらくなる一つの流れがあります。それは…

① 幼い頃に不安ばかりで安心をもらえなかった ⤵︎

② 自分で安心しようとして防衛を過度にする ⤵︎

③ 防衛が進むと無意識になり、それが無自覚になる ⤵︎

④ 無意識になると、さらに防衛が大きくなり、③へ戻る ⤴︎

結果として悪循環が生まれることになるのです。このループを断ち切るためには、意識的でいる練習が必要であることが分かりますね。

意識的であるようにして、防衛していることに自覚ができれば、それはそのうちにはひとりでに落ちていくのです。

自分が今どういう気持ちでいるのか、どんな感情がやってこようとしているのか、どうしたいと思っているのか、そういうことをできる限りリアルタイムで気づくようにするのです。

それによって、自分がいつどんなタイミングでどんな防衛をしてきたのか、深く理解することができるのです。

からっぽで、自由で、自然であれ

見せかけを落としなさい。偽善を落としなさい。

自分の自然な実存のまわりに培ってきたあらゆるものを落としなさい。

自然になるのだ。はじめのうち、それはとてもとても骨の折れることだろう。

しかし、はじめのうちだけだ。

by osho

骨の折れるどころじゃないでしょ。どれほどの勇気がいることか…。そうやって、ありのままでいることを先送りするわけです。

誰でも多かれ少なかれ、自分になにかを強いて生きてきたのです。強いれば強いるほど、自然ではいられなくなるのは当然のこと。

リラックスのことなどすっかり忘れてしまい、感情を出すなんてとんでもない。鉄壁の鎧を自分の周囲に作り込む。

その鎧のことを、↑上では見せかけとか偽善と呼んでいるのです。幼い頃に作り込んだ、そうした鎧は大人になると脱ぎ方が分からなくなってしまうのです。

あまりにも長いこと緊張していたら、笑おうと思っても顔が引きつって自然には笑えなくなってしまうのと同じです。

あなたがこれまで培ってきたこと、そのすべてがあなたを自由で自然な状態でいることを阻むようになったのです。

もうどうしようもない、自分の力では何もできやしない。本当にそう諦めがついたとき、自然さはゆっくりとやってきてくれるはずなのです。

年齢はそちらの世界のもの

先日帰宅すると、一通の薄紫色の封筒が届いていました。そこには、「高齢者・・・」の文字が…。

父親はもう亡くなったのになと思って、宛名を見てみるとまさしく私宛だと分かったのです。

その封筒にはなんと、保健所から届けられた「高齢者用肺炎予防接種予診票」なるものが入っていたのです。

あれ、気がついたらとうとう高齢者の仲間入りしていたというわけ?我ながらびっくりするやら、少々納得してない感が…。

公的機関から高齢者と判別されてしまったら、どうもがいても高齢者なのでしょうね。けれども、中身はまったくもってそぐわない。

いつも16〜19歳程度の感じでいるのですから、厚かましいにもほどがある。一体自分は何歳になったら高齢者、あるいは老人になったという自覚がくるのか?

たしかに身体は年齢並だと自覚しているのですが、内面は非常に若々しいことこの上ない。きっと自覚としては若者のまま死んでいくんだろうなと思うのです。

正直言えば、意識に年齢などあるはずもないわけで、そう言う意味ではこの身体もその年齢も全部そっちの世界のもの。

こちらには、純粋な意識しかないのですから。それを無と呼んでもいいし、時間も空間もないし、死ぬことも生まれることもない。これが強がりに聞こえなければいいのですが…。

「自我≠愛」の法則

とってもシンプルな法則を一つ。自我があるときには、防衛が起こり、自我がないときには無防備になるのです。

そして、愛というものが何だか分からないなら、それは無自我のことだと理解すればいいのです。

つまり、自我=防衛、無防備=愛ということ。結果として、自我≠愛ということになるのです。

残念ながら、自我には愛が分からないのはそういうことだからです。世の中に「無私の愛」という言葉がありますが、あれは愛=愛と言っているのです。

無私とは無自我のことだからですね。これを踏まえて、あなたがもしも誰かを好きになるなら、それは自我の愛ということになり、矛盾していると気づくこと。

自我の愛であれば、相手が都合の悪いことをすればすぐに嫌いになれるのですから、そうなったとしてもそれを不思議に思う必要はありません。

また、自分には人を本当には愛せないと分かったとしても、それは当たり前のことだと気づけばいいのです。「自我≠愛」なのですから。

だからといって、人を好きになることを否定しているのではありません。自我の愛を減らして、本当の愛を増やしていけばいいのですから。