意識は今この瞬間という生と共にある

昨日のブログでは、見られる側(思考)から見守る側(意識)へとシフトすることの大切さについて書きました。

なぜそれが大切なのかというと、見られる側(思考)としての自分はただの幻想であり、本当の自分は見守る側(意識)だからです。

そのことに気づかずに一生を終えていくのは、さすがにもったいないと思うわけです。見られる側(思考)は目的志向であり、そこからあらゆる苦悩が生まれるのです。

なぜなら、目的地が設定されてしまうと、そこに到達できない恐怖がやってくるし、目的地を目指さない罪人も生まれるのです。

ところが生にはどんな目的地もありません。生そのものが目的地なので、誰も失敗することもないのです。

私たちの本質である見守る側(意識)が目的志向ではないのは明らかですので、生の本質とも合致しているわけです。

目的志向は時間を必要とし、過去と未来という仮想空間へと動き出すことになって、実在する生から離れてしまうということにも気づくこと。

一方の見守る側(意識)としての私たちは、時間の中にはいません。ただ今この瞬間という生と共にあるのですね。

思考優先から意識側へ

自分の思考(考え、思い)を見守ること、自分の感情を見守るのです。あるいは、自分の気持ちや気分も見守るのです。

それを常態化していくことによって、見守る者という新しい自己がしっかり確立していくようになるのです。

自分は見守るものであって、見られるものではない。この見られるものこそが、自我なのです。

あなたの本質は決して、見られるものではないということですね。この感覚を養っていくと、内面が安定して穏やかになってくるのです。

毎日ずっと自分の思考や感情に飲み込まれて生きるのと、それを見守る側で生きるのとでは、決定的な違いがあることに気づきます。

後者であれば、当事者感覚が希薄になってきます。その結果、勝敗にこだわらなくなり、勝者でも敗者でもなくなり、ついでに加害者でも被害者でもなくなるのです。

被害者が消えてしまうと、当然のこと復讐心も消えていくことになり、その結果人類から戦争が消滅してしまいます。

つまり私たち全員がやらなければならないこと、それはたった一つのこと。見られる側から見守る者へと変化することです。

これだけで人類の未来は劇的に変化してしまうはずです。一人ひとりの生き方が思考優先から意識側へとシフトしていくように祈るばかりです。

起きる事象と見守る意識

少し味気ない言い方になってしまうかもしれませんが、私たちの毎日は次の三つの要素によって成り立っています。

一つ目は、ここにこの自分が存在しているということ。二つ目は何かしらが起き続けているということ。

そして三つ目は、この自分と起きていることの関係として、体験というものがあるということですね。

自分の存在と自分が何かしらを体験し続けているということは、切っても切れないものです。

上で書いた事柄は、誰にとっても至極当たり前のこととして受け入れてもらえると思うのですが、禅はそこにメスを入れたのです。

何よりも重要である自分という存在が、実は幻だというのですからとんでもない話しであり、すぐには信じることが難しいのですが…。

とは言えその結果、残るは二つ目の何かしらが起き続けているということと、三つ目の体験があるということになるのです。

自分という存在がないのだから体験もなくなると感じるかもしれませんが、体験は無くなることはありません。

むしろ、二つ目の何かしらが起きているということの中に体験がただ含まれるようになるだけです。

ということは、最終的には何かしらが起き続けるということだけが残ることになるのですが、実は最初から忘れていた最も大切な要素が一つあるのです。

それを忘れてはならないのですが、それは何かしらが起き続けているのをずっと見守るものがあるということです。

それこそが私たちの本質である意識です。その結果、起きる事象とそれを見守る意識があるというのが、本当に知る必要があることなんですね。

淡々と見守るご利益

昨夜のことですが、もうそろそろ日付が変わるころだなと思って、ブログがアップされるタイミングだと思っていた時に、何やら変な揺れを感じました。

ああ、これヤバいヤツなんじゃないかなと思っているその時に、いきなり停電が起きて、右も左も完全な暗闇になってしまいました。

その闇の中で本格的な地震の揺れがやってきて、久しぶりに気持ちが動揺してドアを開けて、安全確保を試みたりしたのです。

階下で一人寝ている母親を心配して降りて行って、ことの様子を説明してとにかく安心してもらうようにしました。

記憶の中では、何度も停電を体験したはずなのに今回のものは、なんとなく不穏な感じがして不気味でした。

きっとウクライナ戦争のことが、ずっしりと心の中に入り込んでいるため、どこかのサイバー攻撃を受けたのかもという疑心暗鬼になったのですね。

少し落ち着いてから、こうした現実も好ましいかどうかは別としてただ起きていることとして、見守る姿勢が戻ってくるのにちょっと時間がかかりました。

どんなことが起きようと、それを淡々と見守ることができれば静かな自分を取り戻すことができるのです。これは、本当にありがたいことですね。

成ることと在ること

私たちが生まれたばかりの時には、まだ誰でもありませんでした。全体と一つとして存在していたのです。このことは本当は死ぬまで変わりません。

ただ、名前が与えられ、自我ができてくると同時に誰かになるのです。自分というアイデンティティが思考によって作られるのです。

自分は他の誰とも違うという感覚がやってきて、それに乗っ取られてそれが普通になっていくわけです。

それでも学生のうちは、社会という基盤から見ればまだ何者でもない状態でいるのです。

社会の中で活躍し大勢から認められるようになるためには、私たちは何者かになっていく必要があるのです。

多くの人がそれを目指して社会の中へと入っていくのですが、これが自我の錯覚、思考の世界のことなのです。

本当は、決してどんなものにもなりはしないのです。思考を落としてそこに残るのは、ただ在るということ。

成るということに関しては、全てが思考の範疇に過ぎないのです。このことを深く、もっと深く理解することができたら、誰かに認めて欲しいという願望から解放されるはずです。

水に落ちた犬は叩け

私たち人間が共通して持っている感覚として、弱いモノに手を差し伸べるということがあると思います。

ところが中国の諺に、「水に落ちた犬は叩け」というのがあるそうです。「川に落ちた犬は棒で叩け」とも言うらしいです。

要するに、「ライバルや強者が弱っている時がチャンスだから、徹底的に打ちのめせ」ということでしょうね。

確かに勝負に勝つということが目的であるなら、間違ってはいないのです。かつてオリンピックで日本の柔道の選手が足を怪我してる状態で試合に臨んだことがありました。

その時に、相手国の選手はそのことを知っていて、怪我の部分には攻撃をせずに試合を終えて、その結果日本の選手に負けたことがありました。

それをフェアプレイと呼ぶのかどうかは分かりません。逆に、プロレスの試合では相手の選手が怪我などで痛めている部分を、徹底的に攻撃するのが当たり前です。

もちろんプロレスは一種のショービジネスなので、観客が沸き上がればいいわけですから、勝負の世界とは違うのです。

ロシア軍がウクライナの小児科・産科病院などを無差別に攻撃するのは、最も弱い相手に攻撃をするという、溺れかけている犬の頭を棒で突ついて沈ませるのに似ています。

小学生の頃は、弱い者イジメが最も卑劣な行為だと信じていましたし、今もそれは全く変わってないと思います。

けれどもそれ以外の見方、つまり見守るという立場(意識)も同時にあることに気づくようになったのです。

それは非人道的な見方ということでは決してありません。人道的でも非人道的でもなく、ただ観照するという態度ですね。

意識と思考

昨日のブログでは、「物語の内と外」というタイトルで、物語の中に組み込まれて生きるのか、あるいは物語を見る側で生きるのかについて書きました。

元々こうした発想ができるためには、自分の人生を物語として見る視点が必要であり、それが意識だという事です。

私たちは人類の歴史を見る時には、それを物語として見る事ができるのですが、現在進行形で刻々とやって来る毎日の出来事を物語としては見ないのです。

それは思考に乗っ取られてしまっているからです。個々人のマインドが思考を通してしか現実を見ないために、ただ起きる事を淡々と見る事が難しくなってしまうのです。

日々の思考から離れて、自らの広大無辺な意識に全感覚を戻す事ができれば、その時には物語の中に埋没していた事に瞬時に気づくはずです。

一日のうちたった一回でも数分の間でもいいので、しつこく絡んでくる思考から離れていようとする時間を持つことがとても大事なのです。

私は何が何でも瞑想をするべきとは思っていませんし、自分自身もそういう頑なさは苦手なので、瞑想が自分に合わないと感じるならしなくてもいいのです。

ただ思考から離れようと意識する事は、とても大切な事なのです。思考はやってくるものであって、決して自分ではないと気付けばいいのです。

日頃から、少し自分を取り戻している時に、意識に意識を向けるという練習をするだけでいいのです。それが日常的になったら、全体性の感覚を忘れないでいられるようになるはずですね。

物語の内と外

osho の言葉で次のようなものがあります。

『今、何であれ、起こっていることが起こっているのを感じなさい。その「あるがまま」を感じてごらん。

それはそうなのだ。それはただ、そうであるしかない。他にはありようがない。ならば、なぜ抵抗するのかね?』

この感覚、起きていることをただ受容するということなのですが、これこそが物語から抜け出す唯一の方法だと思います。

物語の中に入ってしまうと、されたことは仕返ししたくなるし、それが復讐心にもなるし、理不尽なことは裁きたくもなるのです。

一度そうやって物語の中へと組み込まれてしまうと、そこから抜け出すことは至難の業となってしまいます。

それでも、物語の中で生きることが悪いということではないし、逆にいいことでもありません。

物語の善悪を考えるのではなく、物語の中で生きるかそれを受容して見守る側で生きるのかをいつも意識しておく必要があるということですね。

ゆったりと自然であれ

osho はいつも「ゆったりと自然であれ」ということを強調していました。誰でもその事に異論はないはずですが、ただ現実には難しいということも知っています。

どちらかと言うと、焦ったり、いっぱいいっぱいになって不自然な生き方をしてしまう事が多いのですが、その理由を突き詰めて考えることもないのです。

ゆったり出来ずに、余裕がなくいっぱいいっぱいになってしまう主な理由の一つに、自分は正しくありたい、正しくあろうとする事が挙げられます。

自然であることと正しくあることは、互いに全く路線が違うのです。あなたのハートは自然の中にあるのですが、正しさはマインドにあるからです。

ハートを優先して自然であろうとすれば、マインド(正しさ)が犠牲になってしまうのです。逆にマインド(正しさ)を優先すると、ハートは悲鳴をあげる事になる。

このジレンマから抜け出すためには、正しくありたい理由を明確にする事です。それはもうお分かりのように、単なる自己防衛によるものですね。

正しいと思う立ち位置にいれば、否定されずにすむので安全安心が得られると信じ込んでいるわけです。おまけに正しくない人を糾弾できる。

けれどもその結果、余裕がなくなって自然体ではいられなくなり、ギスギス、イライラした精神状態から抜け出せなくなってしまうのです。

自分の正しさを主張しない事、そして正しさにしがみつことの愚かさに気づく事。正しさがなくならずとも、その手綱を緩めてあげるだけで、心に余裕ができるはずです。

「ゆったりと自然であれ!」この言葉を時々思い出してみて、そこから自分の毎日を見つめることを忘れない事ですね。

復讐心の伝搬を止めるには?

マインドは思考によって惨めだという思いを作ることができます。もちろんそれは単なる思考なので、事実ではありません。

けれども、その惨めだという思いによって、人は途方もなく傷つくことになるのです。それが耐え難いために、その惨めさを認めようとしないこともあるのです。

惨めさを隠す手っ取り早い防衛方法は、怒りという感情を生み出してそれで惨めだという思いに蓋をするのです。

つまり怒りというのは、惨めさを隠すものとして機能するということ。このことは、このブログでも何度も繰り返しお伝えして来ています。

更にこうした惨めさが繰り返されることで、怒りだらけになると共に、怒りという感情と思考をくっつけることで、憎しみや復讐心を作り出すのです。

こうなってしまうと、怒りをただの怒りとして味わって解放するということが、なかなか難しくなってしまうのです。

今起きている壮絶なロシアによるウクライナへの侵略も、ロシア民族あるいはプーチン大統領の復讐心によるところが大きいのでしょうね。

一度純粋な怒りを憎しみや復讐心へと歪曲させてしまうと、そのエネルギーは世代を超えて何百年単位で継続することになるかもしれません。

まさにそれが人類の絶えざる戦争の歴史を作り出して来たとも言えるのではないでしょうか。

惨めという思考と怒りという感情の癒着を解くためには、思考を見て、感情を味わうという方法が一番なのです。

それができれば、未来に向けて憎しみや復讐心を伝搬せずに済むのですが、それを個人個人でやっていく必要があるので、絶望気味になるのは私だけではないはずです。