意識は今この瞬間という生と共にある

昨日のブログでは、見られる側(思考)から見守る側(意識)へとシフトすることの大切さについて書きました。

なぜそれが大切なのかというと、見られる側(思考)としての自分はただの幻想であり、本当の自分は見守る側(意識)だからです。

そのことに気づかずに一生を終えていくのは、さすがにもったいないと思うわけです。見られる側(思考)は目的志向であり、そこからあらゆる苦悩が生まれるのです。

なぜなら、目的地が設定されてしまうと、そこに到達できない恐怖がやってくるし、目的地を目指さない罪人も生まれるのです。

ところが生にはどんな目的地もありません。生そのものが目的地なので、誰も失敗することもないのです。

私たちの本質である見守る側(意識)が目的志向ではないのは明らかですので、生の本質とも合致しているわけです。

目的志向は時間を必要とし、過去と未来という仮想空間へと動き出すことになって、実在する生から離れてしまうということにも気づくこと。

一方の見守る側(意識)としての私たちは、時間の中にはいません。ただ今この瞬間という生と共にあるのですね。

“意識は今この瞬間という生と共にある” への5件の返信

  1. 目的がないって、なんて軽やかなんでしょう~~~。なんだか訳もなく、うれしくなります。

  2. 本当にそうですねえ。おまけに、自分は見られる側ではなく、あくまでも見守る側だというのも、私としては途方もなく救われます。

    1. 見られる、というのは、他人の自我から評価とか分類されるという感じなのでしょうか。
      あと、罪人って、私に、すごくフィットする言葉でした。
      罪人にされないようにどこかでいつもびくびくするか、罪人を見つけてほっとするか、そのどちらかで、ずっと生きてきたんだな、と思いました。
      表面ではそんな顔見せないようにして。

  3. そうです、見られるというのは評価される対象という意味です。評価された後、善人なのか罪人なのかに分類もされ得るということですね。だからいつもビクビクしてしまうということです。けれども、本質は見られる存在ではないと気づくと、本当に安らかな気持ちになれますね。

    1. そうですね。1日の終わりは、ぱたんと本を閉じるように、本当の方に戻って眠れるといいな、と思いました。安らか~~~~。

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