愛もどきを見抜く

人を好きになるという体験はとても嬉しいし素晴らしいものですが、自我ゆえに辛く苦しい思いをすることも多々あるはずですね。

なぜなら自我の愛はあくまでも愛のようなものであって、ただ与える側である真の愛とは異なるからです。

そのために、愛する人を独占しておきたいという独占欲が発生するし、もしもそれが叶えられないとなると、今度は激しい嫉妬心が目を覚ますのです。

どちらも純粋な愛からはかけ離れたものですが、それゆえに相手の自由を尊重することもできなくなってしまうのです。

こうしたことがあるからこそ、ドラマチックなラブストーリーが起きるわけですね。側で見ている分には面白いですが、当事者は大変です。

愛のようなものと純粋な愛の見分け方はいたって簡単です。「◯◯してちょうだい」は全てがなんちゃって愛です。

一緒にいてちょうだい、私だけを見ていてちょうだい、愛してちょうだい、優しくしてちょうだい等々。こうして相手に求めている限りは愛ではないです。

大切なのはそれが悪いということではなく、それは愛ではないと気づいていること。そして、相手の自由を尊重できない惨めさから逃げないこと。

そこから一歩も逃げずにいられるなら、自然と自分も相手もともに自由でいられるようになっていくでしょうね。

“愛もどきを見抜く” への3件の返信

  1. 長年の疑問でしたので質問します。
    相手に求めない純粋な愛の恋愛、結婚をすることはなかなか難しいのではないかと思っています。特に結婚は相手にいろんなものを求める、期待する、嫉妬する、ごく当然のことだと思います。
    若ければ生理的に、また経験の少なさも手伝い、その可能性は高くなるように思います。中には相手に期待しない、求めない純粋な愛を持って結婚する人達もいるとは思うのですが。
    大澤先生のおっしゃる愛を今は理解して納得してるのですが、ではなぜ多くの人がこれを知らない、気づかないまま(多分)、結婚することになっているのか(生理学的にも)。
    気づくためですか。気づけてよかったということでしょうか。

    1. なぜ多くの人々がまやかしの愛に気づけないのかというと、自我を深く理解していないということに尽きますね。ただそれだけです。自我が自分を支配している瞬間は、純粋な愛が分からないのです。なぜなら、その愛とは防衛がない瞬間だからです。防衛している限りは、守ろうとする自分がいるのですから。ただ自覚はないにしても、時には我を忘れて相手を助けようとすることもあって、その瞬間は自我が停止している状態なので、愛が発動するということです。恋愛しているということは、そこに自我がいるのでまやかしの愛なのです。世間一般的には、そんなことに興味を持たないでしょうけれど。

      1. ご返答いただきありがとうございました。自我を深く理解することが難しいのだから、自我のまやかしによる恋愛や結婚をすることは至極一般的なこと、それに対してジャッジすることなく、それも含めての恋愛、結婚ということなのでしょうね。自分なりに納得しました。ありがとうございました。

葉っぱ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です