役柄を演じ切る

優れた俳優さんは、与えれらた役柄を徹底的に演じ切ることができるのです。その役柄が好きとか嫌いとかあったとしても、それで演じ方が変化することはありません。

その役に成り切って没頭することで、大きな満足感を得ることができるのでしょうから。そこに満たされた生き方へのヒントがあると思っています。

私たちは誰もが自我という役柄を与えられています。ところが本当の自分のことを忘れてしまったがために、役どころと一体になってしまったのです。

その役を演じていることを忘れてしまい、要するに同化してしまったわけです。そうなると、役柄そのものを批判し始めるのです。

もっとこうだったらいいのにとか、なんで自分は他の人よりも◯◯なのだろうとか、とにかくその役柄のあるがままを認めようとはしないのです。

さらに言えば、その役柄から飛び立って別の役柄になろうと必死になったりするのですから、これでは死ぬまで演じていることを思い出せないままになってしまいます。

清々しく生きるヒントは、どんな役柄であろうとそれをありのままに知ることです。理想と照らし合わせるのではなく、判断せず、咎め立てせず。

そうやって、役柄を深く理解することで結局は本来の自分のことも思い出すことになるのでしょうね。

必要とされたい願望

誰の人生であろうとみんな同じように、自我のない純粋無垢な状態からスタートするのです。自他の区別もないいたって無邪気な頃ですね。

それが自我の芽生えと共に少しずつ自他がはっきりして、自分のことは自分で守らねばという自己防衛の火蓋が切って落とされるのです。

他人に囲まれた自我は、自分の存在を明確にしておきたくて、自分の存在を特別なものだと思いたいのです。そのために、必要とされたいという強い願望が生まれます。

必要とされることによって初めて、自分の存在を認められるからです。逆に言えば、誰からも必要とされない自分ほど惨めなものはありません。

こうした路線は放っておけば、人生の最後まで続くことになるのです。けれども、このような生き方がどれほど馬鹿げたものかに気づいていく人もいます。

必要とされることは、便利で都合がいいということであって、そこには愛がないとはっきり気づけばいいのです。そうなれば、その路線から抜け出すことも可能になるのです。

この世界は自分などいなくても成立するし、自分なしでもうまく存続するに決まっているのです。そしてそれはそういうものです。

そこにはどんな問題もありはしません。結果、競争も不要になるし、自他という間違った分離感からも距離ができるのです。

自我は小さくなって、まったく異なる人生の風合いに目覚めることになるのでしょうね。

受容は無条件

受容する、受け容れるという言葉について考察してみると、かなりそれ自体に自己矛盾を孕んだ言葉だなと思うのです。

どういうことかを少し書いてみたいと思います。例えば、この程度の出来なら受け容れられるけれど、それ以下の場合は受け容れられない、という使い方があります。

あるいは、Aは受け容れるけれど、Bは受け容れないという場合もあります。このように、受け容れる対象と受け容れない対象があるのは、どういうことでしょうか?

それは、受け容れるという言葉は使ってはいるのですが、本当は許すとか許可するといった意味で使っているように思うのです。

テストの結果が70点以上なら合格でそれ以下なら不合格のような感じですね。他の表現を使えば、70点以上なら我慢するけどそれ以下なら我慢できないとも言えます。

本来、受け容れるということは受け容れたり受け容れなかったりという選択がない状態の時にのみ使える言葉なのです。

だから受け容れられるとか受け容れられないなどの可能性の要素が入ると、受容の本来の意味から離れてしまうのです。

受け容れるとはそもそも無条件でなければなりません。そしてもっと深く突き詰めてみると、受容するとは他動詞ではなく、自動詞であるはずです。

つまり目的語を必要としないものです。それは受容している状態を指すからですね。つまり本人の意志とは無関係のところにあるものなのだということです。

もしもあなたが自分のことを受容するなら、それこそどんな自分であろうとも受容していることを意味するのです。このことを深く理解しておくことですね。

無頓着のススメ

昨日のブログの最後の方に、◯◯に無頓着であるほうが却って◯◯に困らないでいられる、ということを書きました。

もう一度読み直してみて、随分と雑な言い方だったなとも思ったのですが、それでもある程度の真理をついているような気もします。

一般的な感覚からすると、無頓着というのはあまりいい意味では使われないように感じるのですが、本来の意味は頓着しないということです。

辞書によると、頓着というのは「心にかけること。気にすること。あるいは深く気にかけてこだわること。執着すること。」とあります。

要するに、「頓着=執着」であると捉えるならば、無頓着=無執着ということになって、それはエネルギー的には清々しい気がします。

一度でも執着してしまうと、そこには必ず不安がやってきて、闘うエネルギーも引き寄せてしまうのです。

執着が不自由を引き寄せてしまうことも容易に理解できますね。ということは、無頓着=自由ということも言えるはずです。

なるほど、だから無頓着でいることは気持ちがいいのですね。ただ、こだわりの◯◯なんていうのもあって、それはそれで自我にとっては魅力的なのです。

こだわる気持ちも大切と思って生きるのか、あるいは無頓着を是として生きるのか、あなたならどちらに軍配をあげるでしょうか?

労働って何?

日本国憲法の中に国民の三大義務というのがありますね。教育の義務、勤労の義務、納税の義務の三つです。

私はこの年齢になっても義務という言葉にちょっとした抵抗があるのですが、それはさておき未だにしっくりこないのが、勤労の義務です。

私の社会性の中の何かが欠落してしまっているのか、勤労というものをしっかりと理解できていないようなのです。

労働というのもピンときません。さらに言えば、労働の対価としてお金をもらうというのも、深いところで違和感を感じています。

このような感覚を持った人はもしかしたら一定数いるのではないかと思っていますが、そんなことを話題にすることもないので本当のところは不明です。

なぜ労働が必要なのか?一日中釣りを楽しんだっていいじゃないと思っているのです。頑張って働いて、欲しいものを手に入れるという気概もゼロ。

だから労働の対価をもらって、それで生活しているという感覚が曖昧なのです。勿論理性ではそのことを理解はできているのですが。

そのせいなのか、今現在私が使えるお金があるとしたらそれは全て、どこからかやってきたものだという認識なのです。

結局ようやく手に入れた大切なものという扱いもできないし、生きていくのに必要なお金があるのが不思議な感じなのです。

勝手な思い込みかもしれませんが、ある程度無頓着であるものの方が、却って不自由しないのではないかと思っています。

あって当然という思い込みは、案外困らない現実を持ってきてくれるのかもしれないなとも感じていますが、みなさんはどうでしょうか?

マインドの法則

もしもあなたが自分の正直な気持ちや思いなどをないがしろにしたり、あるいは無視し続けるとしたら、いずれはそれに見合った代償を払うことになります。

この法則は絶対です。ニュートンの万有引力の法則と同じくらいに正確にやってきます。当たり前と言えば当たり前のこと。

一回我慢させるのか、百回我慢させるのか、あるいは千回、一万回なのかによって、それに応じた報いが必ずやってきます。

決して逃げおおせるようなものではなく、そのツケは必ず払わされることになります。それはもうあらゆる手段を使って。

一番分かりやすいのは、物理的な身体の不調であったり継続的な具合の悪さなど。勿論それに病名がつく場合もあります。

あるいは、明らかな病気を患うこともあるのです。私の場合は、全身の皮膚炎と大腸がんを患いました。

がんの手術をした途端に皮膚の痒みが消えて、会社を辞めた途端に皮膚の赤みも消滅してしまいましたが。

そして、わかりづらいのは精神的な様々な苦痛や生きづらさです。代表的なものはウツ症状であったり、その他あらゆる精神疾患も含まれます。

考えてみればとてもシンプルな法則なので、ツケを払い終わったならその後はできる限り現金払いにすることです。

そしてなるべく正直に、より自然に、より自由に、より無邪気に生きるように変えれば、人生そのものもシンプルになってくるはずですね。

精神の飢餓状態

私たちのマインドあるいは自我は、目標や目的なしに生きていくことはできないのです。過去や未来に思考を飛ばすのもそれが理由です。

多忙を極める人たちは、そんなことはない。自分は何もせずにいられる時間が欲しいと言うかも知れません。

けれども彼らが全くフリーな時間を手に入れたとしたら、今度はその時間をどうやって過ごそうかということを考え出すのに、それほどの時間はいらないはずです。

たとえ瞑想するとしても、何の目的もなく瞑想することはできないのです。自覚はなくても何らかの目的がそこにはあるはず。

もしも何もするべきことがなく、何もしたいこともなく、それでも何も特別困ることがない時間が続けば、マインドは悲鳴を上げることになるのです。

老いて認知症になった母親を見ていると、無目的に生きることしかできなくなって本当に困っているのが伝わってきます。

それで無理やりマインド単体でアリもしない不安ネタを作り出しては、それを解決することを目的にするのです。

それと同時に無意識的な状態へと持っていって、その無目的による精神の飢餓状態を忘れるようにするのです。

こうしたことを身近で教えてくれるのが、今の母親の唯一の役目なのかも知れませんが、それにしても物理的には恵まれつつも、精神的には飢えている状態から早く解放してあげたいと思ってしまいます。

自我は天国には住めない

みなさんは、天国とかユートピアなどと聞いてどんなイメージを持つでしょうか?争いのない愛に溢れた場所っていうような感じかと思います。

何千年にわたる人類の歴史が戦争などによる殺戮と略奪の連続であることを考えたら、その反対にある平和な世界をイメージするかもしれません。

自分が生きている間にそうした理想的な世界がやってきてくれたらいいのにと思うかもしれませんが、それは本当ではありません。

なぜなら、戦争のない平和な世界になって誰もが幸せに暮らしているとしても、自分だけが惨めな毎日を生きているとしたら、そんな平和などいらないと思うはずだからです。

つまり私たちが真に求めているのは、自分の心が満たされることなのです。その上で世界全体が平和であれば尚良いと言っているだけ。

これが私たち自我の本質です。それは自分の存在は他者と分離しているという思いから必然的にやってくるものです。

そしてもっと知っておくべきことは、自分の心が分裂していることこそがこの世界の分裂を生み、それが現在の戦争ばかりの世界を作り上げてきたということ。

自我が優位である社会において、争いごとが消えて無くなることは決してないと思って間違いありません。

自我にとっては、争い(防衛)が消えていく世界を理想としながらも、それは同時に自我にとっての死を意味することになるのです。

冒頭に戻って天国やユートピアがあっとして、そこで自我が生き残ることは不可能なのです。この逆説的な事実への深い理解が、きっと自我優位の世界から離れていくためには必要なのでしょうね。

頭隠して尻隠さず

ワンちゃんを可愛がっている人からすると、ちょっと不服かもしれませんが、犬には自我がありません。勿論他の動物も同じです。

犬が自分の尻尾を追ってクルクル回っている姿を時々見ることがあると思います。あれは勿論尻尾を自分の身体の一部だと認識していないからです。

なぜならそもそもが自分という認識がないからこそ、自分の身体というのもないわけです。その自分という認識こそが自我だからですね。

「頭隠して尻隠さず」という諺があるように、犬は相手から隠れようとするときに、相手の姿が見えないようになるだけで隠れている感覚になるのでしょうね。

頭というのは目がある部位だからこそ頭だけは隠すことになって、それ以外の身体はバレバレ状態になってしまうわけです。

それに対して私たち人間は、自我(自分という認識)を持っているので、自分の身体がどこからどこまでかを知っているのです。

ただし目には見えない内面に関しては、この限りではありません。自意識とか顕在意識と言われる部分(正確には意識できるマインドの部分)だけが自分の心だと思い込んでいるのです。

そうなると、潜在意識(自覚できないマインドの部分)については全く気づくことができないため、場合によってはマインドが激しく分裂してしまうのです。

自意識ではとても条件のいい相手だと思ってお付き合いしていても、潜在意識ではとにかく大嫌いと思っているかもしれません。

だとしたら、潜在意識の自分はとても酷い目に遭っていることになりますね。気づかずにその人と結婚したら、いずれは離れることになるはずです。

目の前で起きている事象に振り回されて生きていると、潜在意識の存在をすっかり忘れて自意識だけで人生を泳いで行こうとしてしまうのです。

これはまさに頭隠して尻隠さずの状態と同じだということに気づく必要があるのです。外側よりも内側を見ることが大切である所以ですね。

より自由であるために

誰もが自由に生きたいと願っているはずなのですが、なぜか不自由な人生を生きている人がたくさんいるのです。

自由か不自由かというのはあまりにも雑な言い方ですね。完全に自由な状態から不自由極まりない状態まで、グラデーションがあるのです。

できる限り自由でいようとするためには、何を心がけたらいいのでしょうか?あるいは、不自由な状態とは具体的にはどういうものか?

その辺のことをしばしゆらゆらと考えてみたのですが、自分の場合だと何かに囚われているなと感じた時には不自由なのだろうなと。

人間とはこうあるべきとか、物事の正しさであるとか、何らかのルールであるとか、そう言ったものに縛られているなら、不自由を感じるはずです。

それと少し種類が違うかもしれませんが、好き嫌いが激しいとか、自己主張が強い場合も不自由なはずです。

人間本来の存在は他の動物と同じで野生であるはず。それは自然であるということです。だから不自然さが不自由さを生むとも言えるのですね。

自由であるための最短コースは、きっと選択せずにいること、そして受容することだと思います。

もしもあなたが死にたくないとやったら不自由になるはずですが、死を受容した途端、死から解放されて自由の身になるということです。

また能動的であることよりも受動的な生き方をしている人の方が、そういう意味ではより自由であることは間違いないですね。