自動で音楽再生する奴

瞑想というのは、ただ黙って何も考えずに静かにするということだとしたら、なぜわざわざそんなシンプルなことを練習する必要があるのでしょうか?

それはみなさんも分かっている通り、思考を止めることがとても難しいからですね。何も考えないようにしていても、すぐに思考がやってきます。

この勝手にやってくる思考のことを自動思考などと呼ぶらしいのですが、主人である自分の言うことを全く聞こうとしない不届者なのです。

私の場合、その自動思考のような分かりやすいものは、比較的止めておくことができるのですが、その代わりにもっと強敵がいるのです。

それは、何もしない状態が少しでも続くと、すぐにその隙間を埋めようとして、心の中で曲を奏でる奴がいるのです。

何の曲かはその時によって異なるのですが、クルマを運転しながら一緒に歌ったりした曲は、あっという間にそれに使われてしまうのです。

鼻歌的なこともあれば、オリジナルの楽曲を思い出しているような時もあれば、本当にさまざまなのですが、とにかく音楽をぶち込んでくるのです。

大学生の時には、試験問題を解いている間にこいつがやってきたので、流石にびっくりしたのを覚えています。

つまり覚えているだけでも学生の頃からその現象は起きているので、かなり年季が入っていると言ってもいいので、本当に強敵なのです。

これまで、ある程度放置してきたこともあったのですが、そろそろ本気でそいつを退治したいと思うようになりました。

それで昨日から真剣に曲が始まったらすぐに、強制的にストップさせるということを続けているのですが、奴はどうも私の左脳にびったりと張り付いて、簡単には取れなくなってしまっているようです。

半年かかろうが一年かかろうが、いつかは消えてもらう必要があるので、この対処にしばらくは従事することになりそうです。

そして、自動思考も完全に無くしてしまえば、晴れて右脳を中心に生きる清々しい人生が待っていることになると思うのです。

機能するマインドの話

肉眼がモノを見るということと、私たちがモノを認識するということは全く異なる現象だということを少し前に書きました。

そのことをもっと明確にするために、会社員の頃に経験した面白いエピソードを一つご紹介したいと思います。

このエピソードについても、かなり昔にこのブログのどこかで書いたことがあったはずなのですが、その記事を探せそうもないので、もう一度書いてみます。

東京の自宅から横浜にある会社までクルマで毎日通勤していた頃のことです。ある日、お決まりの深夜まで残業をした帰りに体験したことです。

会社を出てすぐに電話がかかってきたのです。仕事のことだったと思うのですが、内容についてはすっかり忘れてしまいましたが、帰り道のほとんどをその電話をしながら運転したのです。

電話の会話にすごく集中していたのは覚えています。そして、もうすぐ自宅に着くという頃になってようやく電話を切って、我に戻ったのです。

その時にびっくりしたのは、ふと気がつくと、自分がどこをどのように運転してきたのかの記憶が全くないのです。でもちゃんと、事故も起こさず無事に自宅の付近まで戻っているのです。

どうやっても記憶がないので、その時は不思議な体験をしたなというだけで、それ以上の説明ができなかったのですが、これが冒頭の話につながるのです。

つまり、この身体を操って巧みに運転をする「機能するマインド」がいるということです。私という自我は、そのことに一切協力していなかったわけです。

だから、私は運転をするという体験をしていないので、当然のことその記憶が全くなかったということです。

自我が仕事の会話に夢中になっていたので、まるで飛行機の自動操縦の状態にでもなったかのように、機能するマインドが仕事をしてくれたということです。

ここまで極端でなくても、日頃運転している際に何か危険を察知して急なブレーキを踏んだ時にも、ああ自分より先に誰かがブレーキを踏んでくれたと感じることがあるのです。

機能するマインドは、私よりも圧倒的に優秀なのです。そして1日のうちのほとんどをカバーしてくれていることにも気づきます。

そのことをより明確に気づくことで、おまかせモードで生きていくことができるのです。自分は、肩の力が抜けてお気楽な時間が増えること間違いなしですね。

無目的な散歩の勧め

時々、自分は時間に縛られて生活しているなあと感じることがあります。会社員の時と比べたら、比較にならないくらいに自由になったのですが…。

毎朝同じ時間に目覚ましで起きるのですが、本当は起床時間など適当でもいいのです。それでも、規則正しい生活のほうが心身に良いみたいな言い訳をして、ずっと続いているのです。

朝のルーティーンが決まっている方が、頭を使わずにいられるのも理由の一つです。◯時に家を出て、◯時にスポーツクラブに到着。

ほぼ決まった筋トレメニューをこなして、ほぼ決まった時間に事務所に着くのです。ほとんど毎日がこの繰り返しで、時間が大幅にズレるということもない。

だからなんだか時間に縛られている感じがするのでしょうね。時間に縛られていると、無目的に生きることが難しくなります。

なぜなら、時間に縛られている理由は、何らかの目的を実行、達成するためだからです。だから、いつも行動には理由や目的があるのです。

それで今思ったのですが、散歩ってとても素晴らしい響きがありますね。散歩をイメージするだけで、時間や目的から解放された感覚になるからかもしれません。

右脳を優位に持っていくためには、なるべく時間から解放された感覚でいられるようにする必要があると思います。

だから完全に無目的な散歩が一番理に適っているかなと。もしも散歩などしている暇がないと感じるなら、左脳優位になっている可能性があります。

時間は作ればあるのです。その自由な時間を右脳さんに解放してあげるためにも、散歩がいいのではないかと思います。

ただし、計画的な散歩、何らかの目的のある散歩はあまり効果がないと言えます。散歩の目的は、ただ散歩をするということにとどめておく必要がありますね。

バランスよく生きる

私たちの多くが自我にどっぷりはまり込んでしまっているため、これが自分だという感覚がまるで堅い信念のようになって、疑うことすらしないのです。

けれども色々調べれば調べるほど、自我は人間社会が作り上げてきたものだということに気づくのです。

もちろん社会を作ったのも人間なので、人間が自ら自我を生み出したのですが、それがあまりにも社会を生きるために都合よく出来上がっているのです。

問題は自我に偏り過ぎてしまったということではないかと。本来は自然で自由な存在であるはずなのに、それを抑圧して自我が全てだとばかりの生き方に傾いてしまったのです。

そうなると、自我の世界で生きて、あれこれの物語の中で揉まれた末に、自我として死んでいくことになるのです。

何度も何度も繰り返して言うのですが、あなたという自我は作りものなのです。左脳の中で複雑怪奇に進化させた結晶なのです。

それがどれほど素晴らしいものであれ、どれだけ醜悪なものであれ、どのみち作り物でしかないということを見抜くことです。

だからと言って、難行苦行の末に自我を落として覚醒する必要もなく、ただ作られた自我とオリジナルの自己とのバランスをとって生きること。

それが最も理にかなっているし、美しいのかなと最近は思うようになりました。だから思い切り右脳にシフトしてください。

どれだけ右脳に振り切ったと思えたところで、それでようやく左右のバランスが取れるようになるくらいだと思っています。 

体験より体験者に意識を向ける

「体験されることは全てみな幻なのだと覚えていればいい…」これは osho がよく云う言葉です。にわかには、何を言っているのか分からないですね。

例えば、目の前のテーブルの上にリンゴがあるとします。それを目で見て、それをリンゴがあると認識することが体験と言えそうです。

ただ見ただけで、それをリンゴだと認識できなければ、そこにはリンゴに関連したどんな体験もありません。

実際に、私たちの脳の中では、リンゴを見ることとそれを認識することとは、全く異なる働きとして実現しているのです。

認識するということは、非常に内的な働きであって、外的世界とは完全に切り離されているということを理解する必要があります。

そうなると、私たちのあらゆる体験、つまり認識が実在する世界から独立したものであり、相当に怪しいものだという感じがしてきます。

osho はそのことを伝えてくれていたのかなと。それを幻想という言葉で表現していたのだと思うのです。

では真実はどこにあるのかというと、体験ではなく体験する者だと言っているのです。体験者、あるいは観照者のみがホンモノなのだと。

どれほど素晴らしい体験をしたところで、それはあっという間に過ぎ去って記憶データと化してしまう一方、体験者はいつも今この瞬間に実在しているということですね。

ノールールの右脳を使う

赤ちゃんの脳には、まだこの世界のルールというものが組み込まれていないのです。だから、右側から衝立の後ろに入って見えなくなったぬいぐるみが、左側から出てくる時におもちゃの救急車になっていても驚かないらしいです。

右側から入ったぬいぐるみが、衝立の後ろから出てくる時にも同じぬいぐるみであるというルールを持っていないからです。

ところが、一歳くらいになってくると、その現象を見て赤ちゃんはびっくりするらしいです。つまり、もうその頃には同じものが出てくるというルールが脳に組み込まれたということです。

そうやって、この世界のあらゆるルールがゆっくりと脳のなかに組み込まれていくわけです。こうしたルールは、主に左脳に取り込まれていくのでしょうね。

なぜなら、時間の経過を感じているのは左脳だけのようなので。右脳に関しては、今この瞬間しかないので、物事の時間的流れに無頓着なのです。

だからこそ、時間の流れがベースになっているルールは、その全てが左脳に組み込まれていくわけですね。

この見えなくなったものが、存続してるだろうという予想ですが、このルールが脳内になければ人間はどうなると思いますか?

実は私は子供の頃から、見えなくなったものはその存在は不確定だという感覚を持っていました。つまりは、右脳の感覚ですね。

学校から帰る途中で、さよならをした友達は、明日また会うまでは存在しているかどうかを証明できないと感じていました。

今ならわかるのですが、要するに左脳のルールから離れて右脳を活性化させて生きていたということだと思います。

そしてこれは今でも同じです。左脳のルールベースの考え方はクソ真面目でつまらない。だから、右脳の自由さが大好きなのです。

みなさんも意識してご自身の自由な右脳を思う存分使ってみてください。セッションでお伝えしていることのほとんどは、右脳からやってきた情報といってもいいくらいなので。

明日を憂うか、今を楽しむか

以前にもここで書いたことがあるのですが、小学校の卒業の時に作る寄せ書きに、各自の好きな言葉を書いてください、というのがありました。

いくら考えたところで、普段そういった類の名言や金言などに全く興味を持っていなかったので、何にしようかと困ったのを覚えています。

とはいえ、考え悩むのはもっと嫌いなので、エイやあとばかりに捻り出したのが、「明日は明日の風が吹く」でした。

大好きだった担任の先生は、それがあまりお好みではなかったようで、何か他のものにしたらどうかと言われたのです。

私は、分かりましたと言ったきり、その件については知らぬ存ぜぬを通した結果、それが6年生の時の自分の寄せ書きの言葉として一生残ることになったのです。

今思い返すと、それは偶然思いついた言葉のように感じていたのですが、実は自分の中では本当に大好きな言葉だったのだろうと思えるのです。

今この瞬間でも、その言葉にしてよかったと思えるのですから。正直に言えば、私のマインドの中に明日を心配する誰かがいるのです。

けれども、それを打ち消すようにして、明日のことは忘れて、今この瞬間を楽しむことのほうが大切だよと言う声もあるのです。

そしてきっとあなたのマインドの中にも、そうした両方の声があるのではないでしょうか?どちらの声を選ぶかは、あなた次第なのですね。 

変化を嫌う怪物たち

初めていらしたクライアントさんの中には、何回くらい通ったらいいのでしょうか?と質問される方がいらっしゃいます。

確かに、病気で病院に行ったときにどのくらいの期間で完治するのかを聞きたくなるのは、当然のことですね。

けれども、心の癒しについては10回通っていただいたら完治します、などと軽薄なことは言えないのです。

楽になっていくスピードも人によって様々ですし、あるいはどの程度良くなったら、もうセラピーはいらないと思えるのかも、人によって異なるのです。

もっと言えば、実は癒しに終わりはありません。クライアントさん自身が決めることなのです。なぜなら、クライアントさんのマインドは病気を患っているわけではないからです。

そして、クライアントさん自身も不思議に感じるかもしれませんが、もしもマインドの100%で癒しを進めたいと思うなら、たった一回のセラピーで事足りるのです。

なぜ簡単には癒しが進まないかというと、マインドの中に変化を嫌う怪物がウヨウヨいるからなのです。

怪物などと表現するのは可哀想なのですが、その腕力を知っているからこそモンスターだなと思ってしまうのです。

クライアントさんの自分を癒したいという理性とは裏腹に、左脳の大脳辺縁系の部分の細胞であるインナーチャイルドの部分は、癒されて自分が消えていくことを恐れているのです。

だから癒しに対して、命懸けで抵抗してくるのです。その力は半端ではないのです。それを何とかやり過ごしながら、少しずつ癒しを進めていくのがセラピーなんですね。

マシンに心を作る

つい先日、コンピューターに心を持たせようと本気で頑張っている日本人の方を見つけました。日本もまだまだ捨てたもんじゃないですね。

AIの技術がこれだけもてはやされている時代に、まったく異なるアプローチで、意識というものを解明しようとしているのです。

google も Apple もMicrosoft も誰も考えつかなかった新たな展開が、この日本から生み出される可能性があると思います。

もちろん今の段階では、ただの仮説にすぎないのですが、ただその人の仮説は相当に深く考えられたもので、なかなか隙がないのです。

私がこれまで自分なりに感覚として持っていた意識とは異なるのですが、その違いがあったとしても彼の理論がこの先どうなっていくのかは、ぜひ見守っていきたいと感じます。

彼のたくさんの動画のごく一部しかまだ観てないのですが、多くの気づきをもらうことができたのはラッキーでした。

彼の仮説によると、私たちの意識は無意識から現実の情報を受け取って、自分専用の仮想世界を作り上げているとのこと。

人の数だけ世界は存在すると、このブログでもずっとお伝えしてきたことと合致するのです。彼は、私が苦手な脳のエキスパートなんでしょうね。

ちょっとオーバーに聞こえるかもしれませんが、この先の人生がすごく楽しみになってきました。死ぬまでの間、開発過程を見守りたいと思っています。

この先、私なりに詳しい説明ができるようになったら、このブログでもお伝えしようと思っています。

左脳は分離感、右脳は全体性

「木を見て森を見ず」という言葉がありますね。小さい事に心を奪われて、全体を見通さないことの例えです。

私たちが持って生まれた右脳的な見方というのは、常に全体的な視野で物事を捉えるのです。全ては一つとして繋がっているという感覚ですね。

つまりは、俯瞰的に森を見ることに通じるのですが、一方の後天的に発達させた左脳的な見方というのが、物事を分離させて詳細を調べる、要するに近視眼的に木を見るわけです。

左脳が物事を分離して見ることを始めるにあたり、一番最初に必要なのは分離した存在としての自分を確立することですね。

そしてその後、他人の存在をも確立させるのです。この自他をベースに、自我が作られていくわけです。

ということは、自我というのは左脳の中で形作られたイメージということになりそうですね。だから、左脳が停止した瞬間に、自我も消えてしまうのです。

それが深い瞑想で起きていることです。瞑想中に、宇宙との一体感を感じたり、全体性を強く感じられるのは、左脳による分離感が消失してしまうからなのです。

右脳には、自分の身体の形も分からないし、自分と外側との境界もありません。そもそも個としての自分もいないのです。

右脳が感じている世界というのは、私たち(左脳)が認知している外側の世界ではなく、内側の世界なのです。この表現も実は左脳的な発想でしかありません。本当は、内も外もないのですから。