認識するものは全てクオリア

私たちが認識するもの全ては、私たちの頭の中にあるのです。たとえ自分の身体であっても認識するからには、頭の中にあるのです。

つまりは私たちの脳(特に左脳)の中に、この実在する世界を模倣した仮想世界を作って、それをただ認識しているのです。

以前流行った言葉を使えば、脳内で認識するもの全てがクオリアと呼ばれるものです。目の前にある机を目で見ているという自覚がありますが、実際には脳内に作った机クオリアを認識しているのです。

五感から入ってきた情報は、全て電気信号に変換されて脳内に運ばれて、それを元に仮想世界を作り出し、その中にクオリアとして配置するということです。

そのクオリアを認識した時に、見える、聞こえる、味がする、匂いがする、触るといった感覚として感じるわけです。

例えば赤という色は、実在するのは電磁波のある周波数としてであり、それが網膜から視神経を経由して電気信号として脳に送られ、そこでクオリアとして認識されるのです。

ということは、実在する世界には色なんてものはないのですね。そう考えると、本当の世界は一体どんな様相を呈しているのか、全くもって不気味ですね。

もしもあなたがこの世界にいないのなら、色も音も、匂いも味も感触も一切がないのです。それってどんな世界なんでしょう?

如何に私たちが、自分で作り上げた世界で生きているのかが分かりますね。それぞれが独自の世界を作ってその中で暮らしているのです。

それなのに、誰もが同じ一つの世界に生きていると勘違いしてしまっているので、そこには争いごとが起きるのです。

他人との意見の相違が起きた時には、このことを思い出す必要があるのです。みんなが別々の世界で生きているのですからね。

他人を脅威に感じてる?

単刀直入に言うと、自我まみれの自分がいます。防衛やら希望やら欲望などに押し流されて日々を回している張本人です。

その一方で、右脳的な感覚で諸々の物事を見ている自分もいます。自我もそういった自分がいることには十分に気づいています。

そして少しずつですが、自我は右脳的な生き方の方へと近づいては来たのかなと。最も変化したのは、会社を辞めてセラピストになってからです。

ただし、その距離はいまだ相当に隔たったままです。自我は右脳的生き方にとても憧れていて、いつもそれを目指して頑張っているのです。

腹式呼吸をやってみたり、左脳が参ってしまうような言葉を唱えてみたり、瞑想をしてみたり。特に一人で過ごしている時には、右脳優位になっている自覚があります。

ところが、ひとたび人前に出てしまうと、あるいは人の視線がある場所に行ってしまうと、自我の力が必要に感じてしまうのですね。

もう少し細かくみてみると、他人と一緒にいてもより自然体でいられるようにはなっているのですが、会話をすると途端に思考が活動して自我の出番になってしまうようです。

自我の力が強いのは、他人のことを脅威に感じているからかも知れません。それだけ防衛が強いとも言えます。

今自分にできる最大のことは、そのようにして自我が活躍しているのを、静かに見守っているようにすることだけです。自我が100%にならないように、注意深く過ごすということですね。

世界で一番幸せな民族

昨日のブログでは、私たちは毎日のほとんどが仮想世界の中で暮らしているということを書きました。なかなか衝撃的です。

今日の話しはその真逆の暮らし方をしている人たちのお話しです。アマゾンの奥地に暮らす少数民族でピダハンと言われる人々がいます。

彼らは今ここにあるもの、つまり実在するものだけで暮らしているのです。過去も未来もないそうです。昨日のことくらいは覚えていられるようですが、その程度なのです。

彼らの基準は常に今なのです。だから、「昨日あなたが帰ってきた時に、自分はお茶を飲んでいた」などの過去を起点とした言葉やその表現方法がないのです。

また、空間的な認識も今見えている範囲だけが彼らの領域であるため、隣村から誰かがやってきたら、その姿が見えた時にみんなでイビピーオと叫ぶらしいです。

彼らにとっては、いなかった人が出現したということなのでしょう。そしてその訪問者が帰っていく時にも、姿が消えた瞬間にイビピーオと叫ぶということです。

私たちは自分の目の前に見えている空間の外側にも、延々と空間が広がっているという仮想世界を常にイメージしていますが、彼らにはそれがないのです。

色の名前とか数字といった抽象概念も持っていないため、数は3か4くらいまでしか数えられないし、赤色を表現するときに「◯◯の木の実のような色」みたいに表現するのです。

彼らはいつも笑っているそうです。獲物が取れたら笑うし、獲物が取れなくても笑うそうです。そんな彼らは、世界で一番幸せな民族と言われているようです。

複雑な仮想世界を中心に生きている私たちとは全く対照的です。彼らのようになれなくても、もう少し実在するものに意識を向けた生活を心がけてもいいのかも知れません。

とりあえずは、必要な時以外は仮想世界を生み出す思考を使わずにいられるように練習することが大切だと思いますね。

仮想世界で必死に生きている?

昨日のブログでは、私たちが暮らしているこの現実世界というのは、実在するものよりも仮想的なものの方が圧倒的に多いという話をしました。

しかも、仮想的な物ほど、自分にとっては大切であり、執着もしてしまうということでした。そのことについての補足をしたいと思います。

仮想的なものとは、価値や目的、意味や善悪など、人間だけが理解している大事なものばかり。そればかりか、例えば「リンゴ」というのは、一つの概念です。

実在するということは具体的であり、あのリンゴやこのリンゴという場合に限りますが、ただリンゴと言った場合には抽象的なものになり、それは当然実在しません。

よくよく考えてみると、実在するものと触れ合い、一緒に生活していると思い込んでいるだけで、ほとんどは頭の中の世界で暮らしているのです。

それは仮想世界なのですね。今この瞬間に目の前にあるものは実在するものですが、それ以外のあらゆるものは仮想的なものなのです。

あなたが今日会った友達のことを考えているなら、その友達は仮想世界の存在であって実在しません。これってすごいことですよね。

頭の中であれこれ考えているもの全てが仮想世界のモノです。なぜこれほどまでに実在しない仮想世界の中で生きているのでしょうか?

それはきっと自分自身が実在しないものだからではないかと。仮想的なものに囲まれて親和性があるのは、その中心となっている自分も仮想的なものだからなのですね。

冷静に見つめてみるとわかるのですが、自分が実在しているということを証明することができないのです。残念ですが。

結局自分の肉体だけが実在するものであり、それ以外の自分にまつわるあらゆるものは仮想的なものでしかないということです。

そういう意味では、私たちが現実だと思っているものって、夢のようなものだと言えるかも知れませんね。

仮想的なものを消し去る

私たちはリアルな現実世界に生きていると思っています。この宇宙はリアルなものだし、この空間の中に存在する物質もホンモノと言えるでしょう。

けれども、実は私たちの毎日の生活あるいは人生の中では、リアルに存在するものばかりではないのです。

そして、私たちが大切に思っているものほど実在しないとも言えるのです。例えば、「価値」というのはどこにも存在しません。

自分の価値や人生の価値、所有物の価値などについても私たちはすごく気にしていますが、それはどこにも存在しません。意味や目的もどこを探しても見つかりません。

「お金」も実在しないものです。「国」や「国境」というのも物理的な実在ではありません。さらに言えば、過去や未来も存在していません。

つまりこうして見てみると、実在しているものよりもかえって仮想的なものの方が圧倒的に多いのです。

そして仮想的なものへの思い入れ、執着は半端ではありません。なぜなら自分にとって決しておざなりにはできないと感じるものばかりだからですね。

その上で、仮想的なものというのは思考によって頭の中で組み立てられたものです。この仮想的なものをほんの少しの間でも消してしまうことができたら、どれだけ穏やかな気持ちになれるでしょう。

それをするのが瞑想です。左脳の中に渦巻いている思考を静かにさせてしまえば、あらゆる仮想的なものも一緒に消えていってしまうからですね。

生き方がドラスティックに変わる日

これまで生きてきて、ゆったりと自然でのんびりしている人というのをあまり見たことがありません。どちらかというと、その反対に闘っている人、頑張って何かを達成しようとしている人の方が圧倒的に多いのです。

それがなぜかというと、その方が自我にとって都合がいいからです。こうなったらいいのに、こういう現実がやってきてくれたらいいな。

自分はこうなりたい等々、こうした希望をずっと持ち続けているのですが、この希望がある限り自我は安泰なのです。

あるいは、恐怖や不安から逃れて安心しようとする自己防衛、どんな方法であれ防衛をすることで自我は盤石になるのです。

とにかく、周りを見回してみると自我にとって都合のいいことばかりが転がっているのが分かります。

なぜそんなことになってしまったのかと言えば、この人間社会そのものを作ったのが自我だからですね。

自我は自分に都合のいいようにこの世界を構築してきたわけです。だから、防衛と希望の毎日を我々は生かされているわけです。

自我の世界は面白いこと、興奮すること、嬉しいこと、達成感、こう言ったものがたくさんあって明らかに魅了されてしまうのですが、その一方で常に満たされないという思いがついて回るのです。

自我優位の世界を存分に生きた上で、今度はより自然体な毎日を標榜しようとする人がいても良いわけです。

それは誰に急かされるでもなく、ある時突然やってくるのです。その時には、これまでとは全く異なる生き方を選んでみるのもありですね。

今この瞬間との同期

昨日のブログでは、今この瞬間の時空と同期することについて書いたのですが、それって一般的な人生のあり方とは根本的に異なるのです。

私たちの人生には、必ず目的、目標のようなものがあります。毎日の生活とは、そのゴールに向かっていく過程のようなものです。

これはゲームでも同じですね。どんなゲームでも、必ず目的やゴールが設定されています。勝負に勝つとか、ゴールに達成する等々。

そしてそのプロセスも一緒に楽しむわけです。そういう意味では、人生もゲームも同じようなものだと言えます。

人生もゲームもプロセスを楽しむということは、そこに時間的な要素が組み込まれていることになりますね。

プロセスというのは時間的な経過が必ずついてくるのですから。ということは、逆に言えば今この瞬間と同期している限り、そこにはプロセスなんてものはないのです。

今この瞬間との同期状態とは、人生から離れてしまっていると言えるかも知れません。もしくは、目的のない人生とも言えなくもありません。

年齢を重ねてきて人生に目的を見出すことが難しくなってきた今だからこそ、今この瞬間との同期がしやすくなってきたのかなと。

何であれ、歳を取るということは悪いことばかりではないようです!

時空との一体感

瞑想をしていてもっと深く入れそうだなと感じるとき、この時空にピッタリマッチしていくような、一体感的な感覚がやってくるのです。

ズレがなくなるというのか、逆に言えば普段の生活では時空とズレを生じながら生きているということなのかも知れません。

時空とのズレとはどういうことかというと、身体の動きは空間とのズレを意味します。空間には動きがないので、その中で動くということは空間との違いを明確化することになるわけです。

また、考えるということで過去に行ったり未来に行ったりして、今この瞬間からのズレを生じさせているのです。

つまり、私たちは日常的に身体を動かすことと思考することによって、現実にある空間と時間から独立しようとしているのです。

それが個として存続するための作戦であると考えることもできます。反対に、瞑想の時のように身体をできるだけ静止させながら、思考も停止することで、個としての自己が消えていくわけです。

その状態こそが、冒頭で書いた時空にピッタリマッチするということなのです。時空との間にどんなズレも消えてしまうと、個が消滅して全体性だけが残るというわけです。

言葉で表現すると変なことになるのですが、今この瞬間のヒダの中に深く入り込んで一体となっていくような感じです。

そんな時にギャッと言って個に戻って来させようとするすごい力があるのです。個としては、自分が消えて無くなっていくと感じるのですから、当然なのかも知れませんね。 

心とは処理プロセス

私たちは、自分には心がある、心を持っているという実感があります。自分の身体よりも、心の方が自分自身に近いという感覚もありますね。

とはいうものの、身体は実際に見えて触れるものですが、心は触ることも見ることもできません。一体全体、心とはどこにあるのでしょうか?

一般的に言われるのは、頭の中、つまりは脳の中にこそ心があるということです。ただし、今のところ、脳を解剖学的に詳細に分析しても、心を発見することはできていません。

これからも「これが心だ!」という具合に見つけることはできないと思っています。それはなぜかというと、心はモノではなく、何かを処理する過程、プロセスそのものだからです。

そんなプロセスが心だと言われても、すぐには承諾できないかもしれませんね。身近なもので類似したものを探すと、コンピューターのプログラムのことを思いつきます。

プログラムとは、何かの目的のためにコンピューターに処理をさせる命令の集まりのことですが、それによって様々なアプリケーションソフトが機能するのです。

人間の心も同じように、本を読んだり、人とコミュニケーションをとったり、ゲームをしたりするための一連の処理をしているわけです。

瞑想中に心を探しても、それらしいものが見つからない理由は、頭の中で何の処理もなされていないからです。頭の中のプロセスが停止してしまえば、どこにも心は存在しないのです。

得体の知れない自分の心が一体どんなものなのか、その片鱗が垣間見えたのではないでしょうか?「自分=心」だと思っていたなら、自分という実体は存在しないということになりそうですね。

意味記憶とエピソード記憶

今日老人ホームに入居している母親のところに行った時に、すぐには息子の私の名前が出てこないようでした。

今のところは顔は分かっているのですが、名前がすぐには出てこないという状態になりつつあるようです。調子がいい時はすぐに名前を呼んでもらえるんですけど。

名前というのは、記憶の中でも意味記憶という分類になるのです。りんごとか、机といったもの、要するに知識のようなものです。

次に、母親の年齢を聞いてみたら、しばらく考えてから「70歳くらい?」って言うので、それじゃあ息子とほとんど同じだねと 笑。

それは流石におかしいと分かるようで。普段自分の年齢はいくつだったっけ?って考えたりしないの?と聞いたら、全く考えないということでした。

仮に考えたとしても、自分では答えを出せないので自然と考えないようになってしまったのかもしれないなと。

記憶の分類の中には、エピソード記憶というものがあります。これは、名前の通り「昨日の夜はカレーを食べた」のような記憶です。

このエピソード記憶にしても、最近の記憶はほとんどないようで、入居してから一度もお風呂に入った記憶がないと言っていました。

母親を困らせないために、記憶に触れない会話をしようとするのですが、これが結構難しいわけです。

外の景色を見せて、今空が暗くなってきたとか、部屋の温度がちょうどいいとか、そういった今現在の話題だけになってしまうからですね。

私たちの日常にとって、記憶というものがどれほど重要なものなのかを実感できます。その一方で、瞑想中は記憶から離れた状態になるのですが、それはそれで心地いいものですね。