沈黙してみる

今日もシンプルに…

誰かと一緒にいてずっと沈黙が続くと

何か不快な感じになるかもしれませんね

それでも、何も取り繕おうとせずに

ただその沈黙の中にいてみて下さい

すると、クセになっていた自己防衛に

気づくことができるはず

そこから逃げなければ

無防備さの中でくつろぐことができるのです

以上

気遣いについて

今日もシンプルに‥

苦痛に喘いでいる時

気遣って貰うよりも

そっとしておいて欲しいというのが

本音なのは私だけでしょうか?

以上

この世界は謎で出来ている

今日もシンプルに…

この世界は謎に満ちていますね

何から何まで分からないことのオンパレード

分かっていることなど、実は一つもない

ここに気づくと、ひっくり返ってホットします!

謎と言えば、ずっとこのブログをフェイスブックに投稿

しているのに、以前書いた特定のブログばかりが

投稿されているように見える謎…

解決する目途がたたないので

フェイスブックへの投稿を一度やめてみます

以上

内側の広大無辺な空間を感じる

今日もシンプルに…

人は気持ちがよかったり、心地いい状態でいられると

意識が内側へと向くようですね。

すると、その広大無辺な空間を感じることができるのです。

逆に、苦痛に喘いでいれば

意識は外側へと向かうのです。

エゴは、後者を好むはず…。

なぜなら、前者の場合には自分という個人が希薄になって

今にも消えてしまいそうになるからです。

以上

惨めさからの逃亡をやめる

人が最も苦手なものは何だと思いますか?それは、自分の惨めさなのです。自分は何て惨めな存在なんだろう、という思いほど、自分を傷つけるものはありません。

だからこそ、誰もが惨めな想いからできるだけ離れようとして、頑張るのです。その頑張りから、やがてはあらゆる苦しみが起きて来ると言うわけです。

なぜなら、その頑張りこそが自己犠牲を生む結果となってしまうからです。もしもあなたが、何だか人生は辛い、この闘いはいつまで続くんだろう?と感じているのなら、惨めさからの逃亡が原因だと気づくことです。

つまり、自分は惨めな存在に違いないという思いを持って生きてきたことを思い出すことです。自分は惨めなんかじゃないと自分を偽ってきたことを思い出すのです。

そうやって、少しずつ惨めだと言う思い込みから逃げなくなれば、自己犠牲とはお別れすることができます。惨めだという事実はなかったのです。

ただの思い込み、それも真実だと疑わないくらいの徹底的な信じ込みを続けてきたということです。惨めさの中にどっぷりと浸かっていることです。

そうすると、惨めさは幻想だったと気づくはず。

悦びに水を差す親

子供が喜んでいたり、楽しんでいると、それに対してそれとなくチクリと水を差す親というものがいるものです。心当たりはありませんか?

せっかく子供が楽しそうにしているのに、そんなにいいことばかりは起きない、と言ったことをポロリと言ってみたり、本来なら一緒になって子供の嬉しそうな顔をみて喜ぶはずなのに…。

子供が好きなことに夢中になっていると、すかさずやってきて自分はそれほど好きじゃないといったことを言ったりして、楽しい気持ちを台無しにしたり。

大好きな彼女を家に連れてきたら、なんだかんだと邪魔をしてきたり、監視されているような気分にさせられたりと、とにかくそうやって幸せを壊されるのです。

ところが、当の親自身は自分がそのような妨害をしているという自覚はまったくありません。なぜなら、それは親の心の奥に潜むインナーチャイルドの仕業だからです。

そのインナーチャイルドは、本当は自分だってもっと楽しい時を過ごしたかったのに、それができずに不満だったために、子供の笑顔に嫉妬して邪魔をしようとするということです。

そのような妨害を幾度となくされてしまうと、その子供は自分は幸せになってはいけないのだと強く思い込むようになってしまいます。

そうなると、大人になっても自分が幸せになりそうになると、自らそれを破壊するようなことを繰り返すことになってしまうのですから、事は重大ですね。

幼い頃に繰り返された親からの妨害工作を見抜いて、その時のネガティブな感情を味わうことです。少なくとも、親に対する怒りに気づいて、それを感じることが根本的な癒しを起こすことになるはずです。

何も無さが充満している

自分が肉体的にも精神的にも活躍しているときには、はっきりとこの自分がいるということを意識することができますね。

特に、ネガティブな感情に溺れそうになっていたり、苦痛に耐えていたりするときには、明確にここに自分がいると分かるのです。

けれども、一方ではできるだけ身体を動かさないようにして、精神も静止するようにしているだけで、自分というものの輪郭がぼやけてきます。

こうだ、と思っていた自分という存在が何かとても脆くて、危ない感じがしてきます。以前はそれが恐怖と共にやってきたのですが、最近は悦びを感じるようになったのです。

だって、自分がいないと感じるくらい気楽なことはありませんから。でも気楽と感じているくらいですから、まだまだ自分はいるのです。

本当に自分が消えてしまうと、気楽さも何もかもなくなって、それに気づいている状態がただ在るだけになるのです。

それは楽しくもないし、これと言った特別な感慨も何もありません。ただ在るとはそんなものです。何も無さで充満しているのです。

「ただ在る」という気づき

今日もシンプルに…

本当のところ、人生には意味も価値も目的もない、と言うとき

その真意は、意味があるとかないとか、

価値があるとかないとか、目的があるとかないとか

そのような範疇ではないということです

何かに意味や価値や目的を見い出そうとするのは

単に思考の習性なのです

思考から抜けたとき

「ただ在る」だけが残るのです!

以上

この世界は一枚の絵

今日もシンプルに…

以前、この世界は一つの絵だと感じたことがあります

それは、ここには個別に存在するものは一つもなく

一枚の絵のようにつながっているということ

あなたが一つの輪郭をもって

あたかも存在しているように見えるけれど

この絵という一枚(全体)の一部として

繋がっているということ

これ以上シンプルなことはありません!

以上