お墓

今日、家族と久しぶりにお墓の掃除に行ってきました。家族の誰も亡くなってはいないので、墓石もまだ立ててないし、勿論墓参りでもないので、言ってみれば気楽な、ほとんど休日のちょっとしたドライブがてらのような感じです。

自分が死んだら、間違いなくそのお墓の中にお骨を納めてもらうことになるわけですが、自分は昔からそういったことに全く興味を持つことがありませんでした。

勿論、今も死んでそんな墓の中に自分が入れられるなどという思いはこれっぽっちもありませんし、仮に親が亡くなったとしてもそうした気持ちは同じです。

なぜだか理由は分からないのですが、自分が死んだ後のこと、葬式や戒名などのこと、四十九日の法要などについても興味がありません。

自分が死んだ後のことまで、家族やその他の大切な人のことを心配している人が結構いらっしゃるようですが、その気持ちは自分の中を探してもほとんど見つかりません。

そんなことでは無責任なのではないかと言われそうですが、こうした気質というものは生まれ持ったものかもしれないですし、自分としてはどうしようもないことです。

正直、お墓というもの自体の必要性を感じることができないというのが本音かもしれません。ですので、墓参りに行きたいという気持ちもとても薄いのです。

故人のことを偲ぶのは何もお墓に行かなくてもできると思っていますが、だからといってお墓参りをする人を勿論否定するつもりも全くありません。

ただすべては心のうちでのことだと思うだけです。お墓は故人を思う気持ちの象徴であるだけです。それ以上のものだと思う必要はないはずですね。

人は自分が生きていた証しのようなものが欲しいのかもしれませんね。だからこそ、生きてるうちに死後のことをあれこれ心配するのかもしれません。

自分は本当は一人ぼっちだと感じている人ほど、そうした気持ちを強く持つのではないかと思います。自分はみんなと一つなんだという愛の心があれば、生きる証しを殊更求める必要はないからです。

生きていても、死んでいても同じなのです。すべては一つという愛の想念だけが真実であるとすることで、亡くなった人とお墓を結びつける気持ちがなくなるように思います。

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