悔い改める

人はその命が終わり、死ぬとそれまでの人生での自分の行いをすべて見せられることになり、どこがどのように至らなかったかなど詳細に反省させられると聞いたことがあります。

自分の行動を悔い改めるということによって、魂が進化するというような観点からすると、そうしたこともあり得るのかもしれないと考えられますね。

ただ、こうした考え方というのは、物事の善悪が存在するということが大前提としてあるということです。そうでなければ、悔い改める必要はないからです。

誰が、どのような基準を使って、その人の行いを裁くのか、それは本当に正しい解釈なのかということを考えると、どうも怪しくなってきてしまいます。

私は信心深いところがないせいかもしれませんが、昔から罪はないという考えが好きでした。そして、「奇跡のコース」を読んだときにも、全く同じことが書いてあったのでその考えが確信に変わりました。

罪がなければ、悔い改めるという必要はありません。罪ではなくて、あるとしたら単なる間違いであると思うのです。そして間違いは訂正すればいいだけです。

間違いは訂正したらそれですべてが終わります。なかったのと等しいことになります。それが許しなのです。罪というものを肯定してしまうと、それは報いとして罰を与えられたとしても、罪そのものが消えることはありません。

元々罪とはそういうものです。ただ、罪悪感を感じるのは辛いので、罰を与えられることで少しだけその罪悪感が減らせると思い込んでいるだけです。

罪を許すことはできません。許しとは間違いを訂正するということなのです。悔い改めるということでもないということです。

お墓

今日、家族と久しぶりにお墓の掃除に行ってきました。家族の誰も亡くなってはいないので、墓石もまだ立ててないし、勿論墓参りでもないので、言ってみれば気楽な、ほとんど休日のちょっとしたドライブがてらのような感じです。

自分が死んだら、間違いなくそのお墓の中にお骨を納めてもらうことになるわけですが、自分は昔からそういったことに全く興味を持つことがありませんでした。

勿論、今も死んでそんな墓の中に自分が入れられるなどという思いはこれっぽっちもありませんし、仮に親が亡くなったとしてもそうした気持ちは同じです。

なぜだか理由は分からないのですが、自分が死んだ後のこと、葬式や戒名などのこと、四十九日の法要などについても興味がありません。

自分が死んだ後のことまで、家族やその他の大切な人のことを心配している人が結構いらっしゃるようですが、その気持ちは自分の中を探してもほとんど見つかりません。

そんなことでは無責任なのではないかと言われそうですが、こうした気質というものは生まれ持ったものかもしれないですし、自分としてはどうしようもないことです。

正直、お墓というもの自体の必要性を感じることができないというのが本音かもしれません。ですので、墓参りに行きたいという気持ちもとても薄いのです。

故人のことを偲ぶのは何もお墓に行かなくてもできると思っていますが、だからといってお墓参りをする人を勿論否定するつもりも全くありません。

ただすべては心のうちでのことだと思うだけです。お墓は故人を思う気持ちの象徴であるだけです。それ以上のものだと思う必要はないはずですね。

人は自分が生きていた証しのようなものが欲しいのかもしれませんね。だからこそ、生きてるうちに死後のことをあれこれ心配するのかもしれません。

自分は本当は一人ぼっちだと感じている人ほど、そうした気持ちを強く持つのではないかと思います。自分はみんなと一つなんだという愛の心があれば、生きる証しを殊更求める必要はないからです。

生きていても、死んでいても同じなのです。すべては一つという愛の想念だけが真実であるとすることで、亡くなった人とお墓を結びつける気持ちがなくなるように思います。

見つめるものは拡大する

自分は幼い頃からとても神経質な子供で、気になることがあるとそのことをずっと考えたりしていたのを覚えています。クルマで出かけるときには、必ずと言っていいほど車酔いをしていました。

これは、はっきりと覚えているのですが、出かける前から、もう酔ったらいやだなということばかりを考えていて、実際にクルマに乗るときにはもうほとんど酔ってしまっているような状態でした。

何かを気にしだすと、そのことばかりに捉われてしまって、何をしてもそのことが頭から離れなくなってしまうということがよくありました。

子供のころからよくお腹が痛くなるのですが、自分の意識がお腹にいつも向いていることに気付いたのはかなり大きくなってからでした。

いつもどんな時でも、おへその周辺に気持ちがあって、何となく張ったような感じがしていたり、なにかが気になったりと、必ずお腹へ意識が向いている状態でした。

大人になって、「見つめるものは拡大する」ということを聞いたときに、ははあ、それでお腹が痛くなるんだなと気付いたのです。

いつもお腹の具合ばかりを気にしてしまうあまりに、結局お腹の具合が悪くなって、それをまた気にして、というような悪循環にはまっていたと思います。

「見つめるものは拡大する」とは、自分が気にしだすと、そのことが頭の中で大きな関心事となって、結局自分にとってとても大きな事柄となってしまうということです。

そして、それがいいことならいいのですが、いやなことだったりすると、そのいやなことが自分の中で大きくなってしまうということです。

この悪循環を回避するには、勿論そのことを頭の中心から離してあげることが大切なのですが、なかなかそれができないのですね。

今ではそこから無理やり目をそらすのではなく、そのことが気になっている自分をまずやさしく許して、その上で別の選択をするようにすることで大分手放すことができるようになりました。

許すというのは、こういったことにも効果があるということですね。お心当たりがある方は、是非試してみて下さい。

奇行

人の不思議な行動、あるいは理由が分からないような言動というのは時々あるものです。そういったものを奇行と言いますね。

例えば、自分は下唇の内側を噛んでしまうという癖を持っています。勿論、唇の皮膚に傷をつけてしまうことになるので、理性としてはやめたいのですが、気が付くとやっていることが多いです。

何気なく髪の毛をぬいてしまう抜毛症と呼ばれる行動や、氷をボリボリ噛み砕いて飲み込むことがやめられないという人もいらっしゃいます。

こうした行為というのは、自分でもその理由が分からないばかりでなく、やめたいと思ってもなかなかやめられない場合が多いのです。

このように、奇行というのは見た目が常識から考えると理にかなってないような行為なわけです。そして、そうすることの目的や理由が他人からも自分自身にもはっきりと分からないという特徴があります。

だからこそ、奇抜な行動として人の目に映るのです。そしてもう一つ不思議なことに、そんな奇行をしている本人は、そのことを真剣には不思議だとは思っていないということです。

それはなぜかというと、そういった行動の原因となることを真剣に探るということは、実は自分にとってとても都合の悪い事実に気付いてしまうからなのです。

人のどんな行為であっても、そこに原因がないということは絶対にありません。必ず、その言動にはそれなりのきちんとした理由、源となる原因があるのです。

その原因のほとんどが、幼い頃の心の傷であるということです。その辛い傷を自分からも他人からも隠すように生活していると、その隠されてしまった心の傷が何とかして表面に出ようとします。

つまり、なんらかのサインを送ってきます。それが、奇抜とも思える言動として発生するということなのです。自分には、ちょっとした奇行があるとの自覚があれば、それが何からくるサインなのかを考えてあげることはとても癒しの助けになります。

自分の言動に注意を払ってあげて、奇抜なことをしていないか観察してみてください。もしかしたら、えっと思うようなことに気付いてあげることができるかもしれません。

重荷をおろす

私たちは時として、知らず知らずのうちに自分に対してとても過酷な重荷を背負わせています。一番代表的なものは、自分の人生にしっかりとした責任を持つというものですね。

どんなに辛かろうと、生まれてきてしまったからには、天寿をまっとうしなければならないとか、いつも正しくあらねばならないとか、いつもたくさんの重荷を背負わせてしまっています。

何だか頑張らねばならない、いい加減ではいけない、とにかく人に後ろ指をさされるようではいけない、など数え上げたらきりがありません。

何かというと、自分には○○するべき責任があるということばかりを主張する人や、それが自分の義務ですからと自分を追い込むタイプの人もいますね。

なんだか立派な人のように感じないわけでもありませんが、どうも堅苦しいし、そういう人と話しをしていると息が詰まる感じがしてきてしまいます。

いつも最も正しい判断をしなければならないと思っている人は、きっと気が休まることがないのではないかとこちらが心配してしまいます。

どうしてそんなに自分に重い荷物を背負わせておきたいのでしょうか?確かに手ぶらで気楽に歩いている人よりも、思い荷物をしっかりしょって一生懸命歩いている人のほうが立派なような感じがするかもしれません。

しかし、重荷を背負って幸せな人はいいのですが、もう辛くて肩が痛くてしかたがないというくらいに疲労してしまっては、人生から笑顔が消えてしまいます。

重い荷物を降ろして身軽になるということは、実は勇気がいることなのです。そのことに気付いている人は少ないかもしれません。

自分は何かわけのわからない重荷を背負っているかもしれないと感じるのでしたら、その重荷の正体をしっかり見つめてみることです。

その重荷は自分にはいらないと決意することができたら、きっとすがすがしい気持ちの毎日がやってくるはずです。

淡々と生きる

以前ハワイに数年住んでいた経験がある人から聞いたのですが、ハワイは日本のような季節による変化がほとんどないので、何かベターっとした数年だった印象があると言っていました。

確かに日本にいれば、数ヶ月に一度は大きな季節の移ろいというものを感じながら生活しているので、何かこう一年のめりはりのようなものがあると思いますね。

季節の移り変わりというのは、どうも身体にとってはこたえるもののようですが、気持ちの上では目に映る周りのものがいろいろな変化をするので、その変化を楽しむことができたりします。

女性の身になると、きっと季節によってさまざまなおしゃれができたりするでしょうから、そういう楽しみもあると思います。

サラリーマンの時には、週末は会社がお休みというのが一週間のけじめのような役割をしていてくれた部分があったと思います。その分、月曜日が何となく明るい気分になれない感じでしたね。

それと月の中で給料をもらえる日というのがありますので、それも月のどのあたりを自分が生活してるのかということの目安になっていたと思います。

それが、今のようなセラピストの仕事をするようになってからは、週末というものが実質ないようなものなので、今日が何曜日なのかという思いがものすごく薄れてしまいました。

それとボーナスは言うに及ばす、給料日というものがなくなってしまったので、月末なのかどうかというような感覚すら消えてしまいました。

サラリーマンのときのような出張というものもなくなり、毎日同じ部屋で、来て下さるクライアントさんを相手にセッションをする生活は、ほとんど年間通して変化がありません。

そういうわけで、本当にめりはりのない毎日というものを送るようになってしまいました。自分としては、実はそれが意外に心地いいのですが、いろいろな変化を求める人にとってはもしかしたら退屈な人生に感じてしまうかもしれませんね。

毎日を淡々と生きるということ、これは何物にも勝るかけがえのないもののように感じてしまうのは私だけでしょうか。

スピーカー

ある知人からネット上で簡単にできる姓名判断のサイトを教わり、試してみたことがありました。自分のフルネームをひらがなで入力するだけで、すぐにそこそこ細かな情報が出てくるものでした。

その占いのアルゴリズムはよく分かりませんが、どうやら入力されたひらがなから、その名前の発音のパターンを作り出して、それで分類するというものらしいです。

結果、自分は『スピーカー』という名前で分類されたグループの人間らしいのです。名前の通り、とにかく話したがり屋だということですね。

数年前でしたら、納得しなかったかもしれませんが、今ではなるほどと思わざるを得ない状態です。それというのも、セラピストという仕事をしていてつくづく感じるのは、自分が分かっていることを全部伝えたいといつも感じるからです。

初めのうちは、ただ自分が仕事に真面目に取り組んでいるからだと思っていたのですが、どうやらそれは伝えたい、話したいという気持ちが強いからではないかと分かってきました。

ただそれだけでしたら、このスピーカーという体質も仕事の役に立つと思えるのですが、困った点もあるのです。

それは、話したがり屋というのはおまけがあって、相手のことを思ってアドバイスをしたことに相手が従わなかったときに腹をたてたり、傷ついたりすることがあるということです。

こうしたことは、最近ではほとんどなくなったのですが、この仕事を始めたばかりのころは、かなり自分でもその自覚がありました。またこのことで、一つの疑問が解けた気がしました。

それはなぜ自分は一人でいることを好むのかということです。孤独が好きというのも何となくまやかしっぽい感じがしていたのですが、どうやら本当は人と一緒にいて話しがしたいけど、聞いてもらえない場合に自分がすごく傷つくということを恐れているせいだと気付いたのです。

できればあまり人とは関わりたくないというのは、そうした恐れが原因だったようです。人を誘ったりすることがほとんどないですし、独りは何と言っても気楽だと思っていたのはそうした隠された事情があったのでしょうね。

自分のことはなかなか分からないものです。普段、占いなどにはいっさい興味を持ってないのですが、こうして役に立つこともあるのだなあと再認識したしだいです。そして、こうして毎日ブログを更新し続けているのも、スピーカーだからかなと思っています。

骨身を削る

比較的楽な人生もあれば、苦労の多い、まさに骨身を削るような思いの人生もあります。どうも人は(特に日本人は)楽をしてはいけないというような潜在的な何かを持っているように思います。

辛く苦しいものを乗り越えてこそホンモノに出会えるというような気持ちを誰もが持っているのではないかと思います。人生は修行なのだということなのかもしれません。しかし、それはエゴの思いです。

人生の苦闘が人生の意義だとエゴが言い張るのですが、そういう声には耳を傾けないことです。エゴは何かを成し遂げて成長することに意義があるとも言います。場合によってそれには、名声を得たり、財を成すことが含まれるかもしれません。

楽して成功してはいけないとエゴは訴えてきます。苦労は買ってでもしろと昔の人は言いますね。しかし、苦労しないと本当に大切なことに気付くことができないでしょうか?

そんなことはありません。お釈迦様は何十年にも渡る苦行をしても悟ることができませんでしたが、菩提樹の下で何日間か瞑想しただけで、悟ることができました。その時にあの苦行は全部いらなかったと言ったそうです。

苦痛を乗り越えられたならまだいいのですが、苦しみの中にいてそれを耐えていることに意義があると感じるのでしたら、人生は辛くなければならないということになってしまいます。

こういった考え方はすべてエゴの作戦です。自分の骨身を削る必要など、何一つとしてありえません。苦しみには愛はひとかけらもありはしません。ですから、そんな愛のないところに意義などあるはずもないのです。

怠けるということとは別の楽をすることです。実は本当の怠け者というのは案外辛いものです。真から楽になれるというのは、防衛をしない心の状態になるしかありません。

忍耐や我慢というものを防衛の手段としていては、決して幸せになることはできません。 骨身を削る人生とは、自分を何かとトレードしている人生とも言えます。

そんな人生はいつまでも辛く苦しくて、不平不満だらけです。自分に犠牲を強いた分だけ、訴えたい気持ちが募るものです。何があろうと、何はなくても、楽で楽しくて、嬉しい平安な心を選択することです。

収入と支出

サラリーマンのときには何も気にする必要がなかったのですが、自営で仕事をするようになって初めて毎年の確定申告をする必要が出てきました。

そのためには、一年間の収入と支出をはっきりさせなければなりません。まあこれは、税金を払う義務があるからするというよりは、主婦が家計簿をつけるのと同じような感覚で毎月のお金の出入りをチェックするという当たり前のことですね。

収入が支出と同じかそれ以上でなければ赤字となってしまうわけです。もしも、買いたいものがあったとしても、収入に見合わなければあきらる必要があるかもしれません。

つまり、収入がこれだけだから、支出はこれだけに制限せざるを得ないということです。勿論収入が毎日の生活のレベルよりも多ければ、そういった制限を持つこともないのですが、無制限にして毎月が赤字になっては困るわけです。

しかし、この収入と支出のバランスを考慮するということは、当たり前のように誰でも考えていますが、実はこれは単なるエゴのルールなのです。

もっと言うと、収入がこれだけなのでという時点で、それは自分が心の奥で設定した収入の通りになっていることを知ることです。

いやいや、自分が設定したのあればもっと多くの収入にするはずだと思われるかもしれませんが、収入というのも自分の投影でしかないということを考えると、やはり自分の設定値となっているのです。

その結果、支出をみずから制限することになるのです。つまり、自分の豊かさというものを自分があらかじめ決めてしまっているのです。

もしも、自分の収入に不満があるというのでしたら、そういった不満がある状態こそ自分の人生にふさわしいとしている自分の心があるということです。

これを打ち破るには、まず収入に見合った支出という考え方そのものを手放すことです。無駄使いをするということよりも、自分のアイデアを実行するのに必要な支出を制限しないようにするということです。

そうすると、自然と支出に見合った収入がついてくるはずです。なぜなら、自分のアイデアを実現することを自分に許可したため、それに相当する収入を得ることも自分に与えるようになるからです。

収入と支出のバランスを賢くとろうとして結局望むことができないと現状に不満を持つ代わりに、常に支出に収入が付いてくると考えることで、現状を打破することができるのです。

もしも現状に不満を持っているのでしたら、是非試してみてください。必ず、何らかの成果が出てくるはずです。

レンティキュラー

昔よくお菓子などのおまけとして付いていた、見る角度を変えると違う絵が見えてくるプレートがあったのをご存知でしょうか?

専門的にはレンティキュラー方式というらしいですが、製造コストが意外にかかるらしくて、最近ではほとんど見ることもなくなりました。

この世界のことをボーっとイメージしていたときに、ふとそのお菓子の景品のカードのことを思い出しました。 この見る角度を変えることによって全く違うものが見えてくるカードと、この世界はまさに同じなんだな~と思います。

この世界は見る角度を変える代わりに自分のマインドを変えることによって、全く違う様相を呈してくるということです。

自分の周りにいて、日ごろからいやな人だなあと思って、ついその人に会うことがうっとうしくなってしまうことはありますね。それは、その人のことを自分のある一部のマインドを使って見ているわけです。

そのマインドの部分を使い続ける限り、その人を天使のように思って見ることはできません。これはどんな努力をしようが、変わることはありません。

しかし、自分のマインドの違う部分を使ってその人のことを見つめてみると、例のカードと同じように、全く違ったその人を見つけることができるのです。

そして見る対象は人に限らず、ありとあらゆるものに対して同じことが起こります。道端に生えている名もない草を見ても、虫一匹を見ても、何もかもがこのマインドを変えることで違って見えてくるのです。

目の前に見えることをそのまま信じないことです。私たちはおまけのカードのように片方の見方ばかりを使って見えるものを判断してしまっています。

すべての事物はもう一つの顔を持っていることをいつも覚えておくことです。何かを前にして、自分がいい気持ちがしないときは、必ずもう一つの見方があると思い出すことです。

そしてその時にもう一つのマインドで見ることができたら、必ず穏やかな気持ちのいい自分になることができます。自分が見ようとして選ぶほうを見ることになるという真実を忘れないことですね。