見捨てられる恐怖 その5

見捨てられる恐怖の強い人のバリエーションとして、他人を人とは思わないようにするというものがあります。

こうして言葉で書くとどうも理解しにくいかもしれませんが、要するに生身の人であって人でないというような勝手な作りこみをしている場合があるのです。

人でなければ何なのかと言っても、これといった言葉でうまく表現するのは難しいですが、例えば人の形をした張りぼてとか、マネキン人形とか、そういった類のものをイメージしたりしているということです。

どうしてそうなるのかというと、相手が生身の人間であるということを認めてしまうと、周りの人たちに自分がいつなんどき見捨てられてしまうかということをずっと気にしながら生活していかなければならないからです。

それは本当に骨の折れる、気苦労の絶えない毎日になってしまいます。ところが、この人であって人でないという作りこみはある意味見捨てられる恐れから開放されるのです。

そうした自己防衛の仕方を合理化と呼んだりもします。客観的にみたらこんな馬鹿馬鹿しいことはないのですが、自分の中では理屈は合っているのです。

そうしておいて何も疑問を感じずに生活していくのです。何かの拍子に気づきそうになったとしても、それはすぐに却下してしまいまた周りは人形だという作りこみに戻ることができます。

もしもそのことを誰かに指摘されたとしても、簡単にはそれを認めようとはしないはずです。本人がそのことから逃げずに、じっくり向き合うことができれば合理化に気づくことができます。

気づくことで癒しは進むのですが、気持ちとしては見捨てられ感が表立ってくることによって、本人はかえって辛くなってしまう場合もあるかもしれません。

それでも、その恐怖感から逃げずに少しずつでも向き合って繰り返し体験することで、見捨てられる事はないという自信が育っていくのです。

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