あるがままを認識する

ごく普通に知っている漢字をじぃ~と眺めていたり、何度も書いたりしているうちに、あれこんな漢字あったかなという不思議な感覚になることがありますね。

しばらくすると、また元の状態に戻っていつも通りその漢字を読めるようになります。きっと誰もがそんな経験をしたことがあるのではないかと思います。

例えば、奇跡の「奇」という漢字をずっと眺めて、上が「大」で下が「可」なんだなあと思っているうちに段々変な感覚になってきます。その二つの字からできていたなんて思ってもみなかったというような…。

よほど、漢字の成り立ちに興味があったりして詳しい人以外は、奇跡の「奇」の字はそんな二つの漢字の構成からできてるんだとは思ってもみないはずです。

これは私たちの認識の方法に原因があるように思います。漢字に限らず、対象物を認識するときに、より直接的に観察することになった時、いつもの認識ができなくなるのだと思います。

親しい家族や友人なのに、ふとあれこの人誰?というような感覚になったことはないでしょうか?相手をじっと見つめていたりすると、そんなことが起きます。

勿論漢字の時ほど明確ではありませんが、注意深く自分の感覚を見ているとそうなるときがあります。ちょっと怖いかもしれません。

私たちは自分では気づかぬうちに、ある特定の方法で外の世界のものを認識しているのだと思います。その方法から少しでもずれてしまうと、もうそれが何だったか分からなくなるということです。

ということは、自分は日頃一体どれだけ勝手な見方をしているのだろうかという疑問が沸いてきます。本当にそのものをあるがままに見ているのだろうかと。

実はあるがままに見るということは、至難の技なのです。それは、厳密に言えばかなり不可能なことだと思って間違いありません。

それは、認識というのは必ず独自の判断や解釈の上に成り立っているからです。それはもう全く無自覚のうちにしてしまうために、自分では気づくことができません。

奇跡のコースのワークブックで訓練することは、まさにこの身勝手な解釈や判断をしていることに気づいて、それを少しずつ手放していくということなのです。

それがすべてをあるがままに認識するということに繋がるのです。それができると、裁くという無意識のクセを取り除いていくことができるのです。

それは結果として、自分の心を愛で満たすことになるのです。真の幸福とはそうした心の状態によってのみ実現するとコースでは教えてくれています。

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