自分という自覚の必要性 その2

昨日のブログでは、何かを学習したり習得するためには、自我は本質的には必要ないのだということをお伝えしました。

自我が消えている瞬間の方が、何事もうまくやれるということも私たちは経験として知ってもいるくらいですね。

それならなぜ、自我は知らぬ間に芽生えてしまうのでしょうか?自我とは、ほとんど自己防衛と同じ意味だとも言えます。

自己防衛しない自我というのは、原理的にあり得ません。私たちが無防備でいるときには、必ず自我がどこかへ行ってしまっているのです。

自我の自己防衛システムが激しければそれに比例して、自己犠牲が起きてきます。そこに人間に固有の苦しみがあるわけです。

動物には苦しみというものはありません。あるのは単なる痛みです。それが肉体的なものであれ、知能の高い動物の心の痛みの場合であれ。

彼らは私たちと同じように痛みを感じますが、そのことで精神的な苦しみを持つことはありません。それは、自我を手放した聖人、あるいは賢人のようなものです。

それならなおのこと、どんな目的で自我を持ってしまうのか?その答えをいくら求めても、求めているのも自我だし、答えようとしているのも自我なのですから、永遠に回答はないのです。

敢えて言えば、一度自我を持つことで個人という思考の虜になり、ありとあらゆる苦悩を経験した末に、自己の本質を思い出すことをしたかったということなのかもしれません。

それにしては、人類の苦しみは半端ではないですね。でもそれも、物語を抱きしめている自己の視点から見れば、丸ごとOKでしかないということです。それが本当の救いですね。