分離という単なる思考

人は誰でも正常に成長すれば、必ず2,3歳くらいのときに分離という幻想に取り憑かれることになります。

取り憑かれるというと、ちょっとオーバーに聞こえてしまうかもしれませんが、そういう思い、思考を固く信じるようになってしまうのです。

それは普通突然やってくるというよりは、気がついたら言葉をしゃべるようになっているのと同じくらい自然にやってくるのです。

だから多くの人が、自分は個人であり、この世界とは分離した存在だということ(考え)が、まるで事実であるかのように感じてしまうのです。

けれども、これは事実ではなく、紛れもない作り話なのです。自律した個人という存在が在るというのはでっち上げに違いありません。

それは思考による単なる説明に過ぎないということです。私たちが、モノに名前をつけるのと同じようなものと考えればいいのです。

名前をつけた本人が、その対象物には名前があると勝手に決め込んでいるだけで、その対象物自体が名前を持っているのではありません。

あるがままの事実というのは、それ自体には説明というものはないのですが、思考がそれを把握しようとしたときに、説明を付与してしまうのです。

そして、その後思考はそれを事実と見なすようになってしまうということです。したがって、私たちが暮らしているこの世界は、各人の思考の産物だということです。

この世界がないということではありません。それはただ在るのです。思考そのものもただ在るのであって、本当はこの現象界の中の一つとして思考が在るだけなのです。