「自分は意識だ」に注意を向け続ける

たちは、2歳くらいのときに、自分という存在がここにいるということを信じ込まされます。それは間違いなく洗脳されたのです。勿論、それを教え込んだのは、ずっと身近にいた親などの大人たちです。

その親も、2歳くらいのときに同じことを彼らの親から教え込まれて信じ込んでしまったため、洗脳は完璧だったわけです。本人が真実だと思い込んでいるのですから、その洗脳の仕方は完璧になるのもうなずけます。

私たちは、そこで自分は身体だと信じたわけです。いつも周囲から指さされた場所には、自分の身体が絶対的に存在していたからです。

そうして、肉体というある種の着ぐるみの中にいて、そこから外の世界を眺めていると信じることになってしまったのです。

けれども、自分に対して注意深くしていられる人たちは、自分は肉体だと思う一方で、自分は意識だということにも気づいているのです。

自分とはこの意識だということは、幼いときに教えてはもらっていないはずなのに、それは当然のこととして知っているのです。

そこで、自分は意識だと分かっている人が二手に分かれます。それは、自分は身体であり、また自分は意識であるということに矛盾を感じるかどうかです。

身体と意識はまるで別物のはずなのに、どういうわけかそのことに矛盾を感じない人もいるのです。結局、自分は身体という感覚は残るものの、やっぱり自分は意識だというところに意識を向けることができると、昨日、一昨日のダグラス・ハーディングの提示したことに納得がいくのです。

意識とは気づいているということです。自己が「在る」というこの感覚は、誰もがごくごく当たり前に持っているものですが、多くの人がその「在る」を自分が肉体としてここにいるに変換してしまっているのです。

意識は身体ではありません。意識には顔も頭もありません。なぜなら、意識だからです。肉体ではないからです。こんな当り前のことですが、認めたくない心には訴えることができません。

少しの間でも、自分は意識だというところに注意を向けていることをお勧めします。そうしたら、必ず意識という本当の自分の姿には、顔を頭もないということがはっきりするはずです。

それが、あなたの本当の姿なのですから。

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