疑うということは素晴らしい

疑うということを否定的に捉えていることが多いかもしれませんが、それはなぜなのでしょうか?疑うことは、とても素直な心の在り方であると私は思うのですが…。

例えば、純粋無垢な幼い子供は親の言葉をそのまま信じることができると言われることがありますが、これは全く的外れな理解であると思っています。

というのも、純粋無垢とは無防備な状態であって、それは何かを信じるということはできません。それはただ信頼することしかできないのです。

無防備とは愛であり、愛は信頼だからです。信じることとは、防衛の一つに過ぎません。親という権威、この人に迎合しなければ自分は危険なことになると判断した子供だけが、親を信じることとなるのです。

そこにあるのは恐怖であって、愛ではないということに気づくことです。何かを信じてしまえば、その裏に必ず信じない心、つまり不信がついてくるのです。

社会やそれに洗脳された親たちは、とかく疑う子供の自然な心を敵対視して、それを亡き者にしようとしてしまうのです。だから子供は信じることしかできなくなるのです。

もしも子供の心に恐怖がなければ、そこにはさまざまな疑いの気持ちが芽生えて当然なのです。疑いとは探求することであって、そこから成長が起きるのです。

もしも疑うことを否定してしまえば、そこには探求者の代わりに社会にとって都合のいい信者が誕生することになってしまうのです。

信者はただ信じることで自分を救おうとする人たちであり、そこには残念ながらもうどんな成長も見込むことはできません。だから私はセッションにおいても常にお伝えしているのです。

私の言うことを決して信じないで下さいと。信じてしまえば、それは不信と隣り合わせにならざるを得ないし、自分で探求して、自分で確かめるということをしなくなってしまうからです。

疑うことを否定せずに、そこから探求者になることです。どんな賢者の素晴らしい言葉であろうと、疑いから出発することで、それを検証していく態度でい続けることができるのですから。

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