社会の中で意識的であること

瞑想中に普段の生活とは全く違った感覚になることは、それほど特別なことではありません。知覚をなるべく遮断して、意識を内側へ向けるのですから。

目を閉じれば視覚情報は遮られます。たとえ、目を開けていたとしても、眼球をできるだけ固定してしまえば、知覚は情報を奪われてしまうために、自然と視点が内側へと向くのです。

耳を塞ぐ必要はありません。マインドが静まってくれば、聴覚は周囲からやってくる音の背後にある静寂を捉えるようになるからです。

視覚は攻撃的な面がありますが、聴覚は元々が受容的なのですね。だから、男性よりも女性の方が、音に対して格段に敏感なのだと思います。

瞑想中の嗅覚と味覚は、今というフレーバーを堪能することになるのです。今この瞬間の味わいには、格別のものがあります。

触覚への情報にも変化がなければ、それは直ぐに麻痺してしまうはずです。瞑想中に、自分の身体の存在を感じることができなくなるのは、そのためかもしれません。

けれども、何度瞑想を繰り返しても、残念ながらその余韻がずっと残るということがありません。一日中活躍している間には、またいつもの知覚がフル稼働した生活に戻されてしまうのです。

本当に大切なことは、ごく普通の生活の中で、如何にして瞑想中にひけをとらないくらいに、意識的であり続けるかと言うことに尽きるのです。

それには、いくつかの方法があります。たとえば、視覚に関して言えば、何かを見ている時には、必ずそれを見ている自分のことも同時に見るように心がけるのです。

聴覚については、私の場合でいうと、絶えずうっすらと聞こえている一種の耳鳴りがあるのですが、それを聞き続けることで、やはり意識を内側に向けていることができるのです。

朝起きてから、夜寝るまでのすべての瞬間瞬間に、このようにして意識を覚醒し続けていられること、そうなればヒマラヤに修行に行かなくても、この社会の中で悠々と意識的でいることができるようになるのです。

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