愛もどきの防衛を見破る

「自我=防衛」ということを繰り返しこのブログではお伝えしてきました。だから、自分が防衛している間は自我に飲み込まれているということなのです。

その瞬間、無防備(愛)という本質である自分は隠されてしまっているのですが、そのことには必ずしも気づいているとは限らないのです。

というのも、自己防衛の中にはそれとは気づきにくいものも沢山あるからです。たとえば、「愛を選択する」という生き方があるとします。

つまり、自分は自我ではないということを証明しようとして、あるいは少しでも本質である愛という存在に近づこうとして、なるべく愛を選ぼうとするわけです。

人を欺くことよりも、正直になるように頑張る。人を嫌うよりも好きになるようにする。自分のことよりも他人を優先するように努める。

こうした行動を意識的に選択することで、自我から離れようとするわけですが、これこそが自己防衛だとは気づけないのです。

でもよ〜く見つめてみればすぐに分かること。愛の存在という目標に近づこうとして自分を強いることは、防衛なのです。

優しい人、親切な人、無防備な人、愛に溢れる人になろうとすればするほど、自我が活性化してしまうのです。愛は決して強いることはないからです。

もしもあなたが自我から遠ざかりたいと願うなら、自分の中に存在するようなふりをしている自我を、愛を持って見守ることです。

それだけを継続するなら、いずれは自我からエネルギーが奪われて衰退していくことになるのですね。

“愛もどきの防衛を見破る” への2件の返信

  1. 正直であろうと頑張る、や、無防備な人になろうとするのも自我のしわざで自我が活性化するのに役立ってしまうのですか?
    頑張ったり、何かになろうとする事で自我が活発になる、ということかもしれませんが、正直であろうとするには、やりなれないうちは意識的にならないと、時には無理強いするくらいじゃないと、なかなかできないのですが…。

    自分の本心を隠したり、気付きたくない自分がいたらそれでもいい。
    そのままでいいということですか?

    1. 自分を改善しなければと思うのは、自我にしかできないということを理解すればいいと思います。あるべき姿に近づこうとすれば、あるがままの自分を否定することになるのです。あるがままを受け入れてただ見守ることでしか、防衛が小さくなることはないということですね。

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