普遍的な自我の作戦

自我は自分が確かに存在するということを証明するために、あることをずっとやり続けてきたのです。

それは、ただ起きていることに対して、それを体験と表現したのです。それも自分の体験ということにしたわけです。

思考の根っこに、自分がいるということを前提とさせたのです。たとえば、歩くという現象が起きているときに、歩いている「自分がいる」とするのです。

「歩く」という現象と「自分がいる」ということは、本来全く無関係なのですが、その二つをあたかもそれが真実であるかのように繋げたわけです。

食べるという現象が起きているとき、私が食べていると言い直し、その裏には食べている「私がいる」と思考をすり替えるのです。

このようにすり替えて思考することによって、それがそのまま記憶の中へとしまいこまれていくのです。

そうすると、過去の出来事の中に常に自分が存在しているかのような錯覚が生まれて、そうやって私という自我の存在が絶対的なものに思えるのです。

これを言語的にやってのけたのが英語です。日本語では食べている私がいるとはわざわざ表現しませんが、英語ではそれをやっているのですから。

I am eating を頭から訳すと、I am =私が在る(いる)、としたあとで eating = 食べている、と言うのですから潔いと思いませんか?

Be動詞は、存在するということを意味するのですから、英語の方が自我が浮き彫りになっているということですね。

それに比べて、日本語の方が自分の存在に対してやや控えめな表現をしているということですが、いずれにしても普遍的な自我の作戦がそこにはあるのです。

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