セラピーは人を選ぶ(不本意ながら)

長年セラピーの仕事をしていると、私の仕事がいかに間口が狭いかを思い知らされることがあります。

つまり私のセッションにいらして、それなりの効果を期待できる人の枠が結構狭いということです。

例えば、幼い子供の場合は基本的には無理だし、年輩の方も難しいというイメージがあります。もちろん一概には言えないのですが。

誰かに連れて来られたクライアントさんは、ほとんど絶望的だし、若い人の場合も癒しに興味を持ってもらえないことが多いので、セッションは無駄に終わります。

それから、心の奥底では癒しを必要としているために、セッションにいらっしゃるのに、表面意識では自分は癒されているという自覚を持っている方もいるのです。

ご本人の中ではきっと辻褄が合っているのだろうけれど、一目でまだ準備ができていないのだろうなと分かります。

結局、私のセッションが通用するのは、ある程度の年齢の中にあって、なおかつ癒しにある程度興味を持っている方ということになるのです。

これって、随分と狭き門だなと我ながら思うのです。それでも、セッションの内容からして仕方のないことだとも理解しています。

麻酔で眠っている間に処理してもらえる外科的手術のようにはいかないのです。だからこそ、様々な気づきもやってくるのですけどね。

静寂はなくならない

普段の生活の中で芸術に触れる機会がほとんどないのですが、音楽だけはいつも何処かで流れているし、意識的にも無意識的にも聴いているのです。

一つの曲が始まる前には静寂がありますね。そして曲がスタートし、そこで色々なことが起きつつ、最後はその曲が終わってまた静寂に戻るのです。

長い曲や短い曲。穏やかな曲や激しい曲。色々ですが、どんな曲であろうとこの手順に違いはありません。

いつも根っこにあるのは静寂なのです。だから静寂だけが不変だとも言えますね。これって私たちの人生とも通じるものがあります。

生まれる前には静寂があり、生まれてから様々なことが起きて、紆余曲折があって最後は死んでまた静寂に戻るのです。

静寂と静寂の間のつかの間の出来事、それが人生というものです。私たちにとっては人生がメインですが、本質的な観点で見れば静寂の方が圧倒的にメインかも知れません。

その静寂を、人生というプロセスの中においても意識できると、静寂という永遠の観点から人生を見ることができるのです。

それは人生の主役の座から、それを見守る側へとシフトすることを意味します。一瞬のプロセスよりも永遠の方が、より本質的な感じがしませんか?

思考中毒から抜ける

頭がグルグルと動き続けて、少しも休まることがないという人がいますが、それは薬物中毒患者と同じようなものです。

何中毒か?というと思考中毒なのです。思考がなければ生きていけないような状態になってしまっているのです。

常に何かを考えている状態。それ以外でいられることもあったはずなのに、それをもうすっかり忘れてしまったのです。

アルコール中毒の人にとって、子供時代のお酒を必要としない頃をもう思い出せなくなっているのに近いですね。

思考中毒になってしまう理由は簡単です。それは自己防衛を途切れることなく続けることで中毒化してしまうのです。

全てではありませんが、思考は防衛には欠くことのできないものだからです。それと、「私」という自我そのものが思考により作られているということもあるでしょうね。

思考を目の仇にする必要はありませんが、思考から解放されている時間を持たなければ、思考中毒となって人生はボロボロになってしまいます。

思考から離れるためには、思考を見るという練習をすることです。思考はあなたの本質とは違うものだという前提に立って生きること。

思考から離れた時には、この世界も自分自身も違ったものとして見えるようになるでしょうね。

学問と宗教の違い

哲学や社会学、心理学等々、ありとあらゆる学問がこの世界には普及していますが、そうした◯◯学は主観を超えることができないのです。

学問はマインドの努力によるものだからです。私たちはそうした◯◯学を、私たちのマインドによって育ててきたのです。

つまりは、学問によってマインドの外側に赴くことは不可能なことなのです。だから学問をどれほど高度に追求しても、マインドの範疇だということ。

それが悪いと言っているのではなく、学問とはそういうものだという認識をしておく必要があるということです。

哲学者や心理学者が決して覚醒できない理由はそこにあります。それはもう明白なことですね。

一方、宗教はまったく違います。宗教と言っても、いわゆる宗教ではなく、真の宗教のことです。

それは、初めからマインドを使わないように仕向けられるし、マインドを超えていく術を教えてくれるものなのですから。

そこで初めて、真の己の姿を垣間見ることもできるのですね。

死というのは自我のもの

私たちの誰もが、死は忌まわしいものだと思っているし、死ぬことを考えると恐ろしくもなるのです。

それは間違ってはいないと思うのです。なぜなら死がやってくるのは自我にとってのことなのですから。

確かに自我は死ぬのです。言い方を変えれば、死というのは自我のものだということですね。

肉体の死とともに、自我を形成している思考群が肉体との関連を絶ち、単なるエネルギーとなって次なる肉体へと移っていくのです。

つまり自我と自己を同一視している限りにおいては、死を恐れ続けることになるのは当然のことなのです。

ということは、自我との同一視に気づき、その本質に目覚めることができるなら、死は全くもって意味を失うことになるはずです。

死が怖くなくなるというのではなく、死はあり得ないということに気づくようになるということです。

そうなったら、同時に人生という物語も消えてしまうはずです。それは自我にはイメージしづらいはずですね。

感情を味わうことが人生を助ける

きっと多くの人は体験したことがないので知らないことだと思うのですが、充分に感情を味わい尽くすと、えっ?と思うようなことが起きます。

それは例えば、どれほど自分に言い聞かせても変えることができなかったことなどが、勝手に変わっていくのです。

自分の考え方の癖や生き方など、それがどれほど不便で理不尽なことであったとしても、簡単には変わらないのが人間の常ですね。

つまり、理性ではどうしようもないことを私たちは知っています。ところが、まったく関係のないと思われる過去の感情をしっかり味わうだけで、変化は勝手に起きてくるのです。

それはとても不思議な感じがするはずです。例えば、私自身の経験で言うと、自分は悪くないという幼い頃の怒りを何度も味わったことがあるのです。

その結果、翌日には人との間に作ってしまっていた対立が勝手に取れてしまったのです。もちろん、取れるまではそんな対立があったことも知りませんでした。

あるいは、得体の知れない過去の感情をただ味わっただけで、それまでより自然体でいられるようになったことがありました。

その結果、歩く速度がゆっくりになり、前のめりだった体の重心が、踵の方へと移動したのを感じたことがありました。

このように、その感情を味わったことと、その結果にどのような関連性があるのかはすぐには理解できないくらい不思議なのです。

けれども、実際にはじっくり見つめていくと、そこには確かに関連性があると分かるのです。

そして、考え方や思い、あるいは生き方を頑なにしてしまっている張本人は、感情だったと言うことが分かったのです。

思考をぐるぐる巻きにして、岩のように硬いものにしていたのは感情だったのです。だから、理屈抜きに感情を味わうことがとても大切なことなのだと気づいたのですね。

癒しの自己矛盾について

セラピストとして日々取り組んでいる心の癒しというのは、実のところ決定的とも言える自己矛盾を抱えているのです。

その矛盾とは何かというと、癒しというのは一般的にはマインド(自我)の癒しのことを指すのです。

自我はその成り立ちからして満ち足りるということができません。なぜなら自我の原動力というのは、不安や孤独を安心に変えようとすることなのです。

安心を得ようとして多大な防衛を続けることで、自己犠牲を重ね、精神を病んでしまうことになるのです。

その精神的病みを少しでも正常な状態へと戻そうとすることこそが、癒しの目的なのです。

ということは、癒しを続けて行った先にあるのは、自我の原動力を削いでしまうことに繋がることは容易に想像できるのです。

つまり、自我を癒していくことは、自我の活動を終わらせてしまうことにつながっているということです。それを自己矛盾と呼んだのです。

だから癒しを程々にして、ある程度の心の健康を維持できるようになったなら、それからは癒しよりも自分の本質を探求するようにするべきだと思うのです。

もちろん最初から、癒しと探求を同時に進めていくことも可能ですが、いずれにしても人生のどこかで、本質の方に目を向けるように意識変革が起きることを願っています。

「池の水を全部抜く」ごとく

事務所の近くに井の頭公園という、比較的大きな公園があるのですが、何年か前にそこの池の水を全部抜くという、大きなイベントがあったのです。

その目的はよく知りませんが、スッポンが生息していたり、結構意外な生き物が見つかったと聞いています。

それと、まったく褒められたことではないのですが、たくさんの自転車やその他の大きな金物も捨てられていたことが判明しました。

池の水の中というのは、外側からは見えないですから、それをいいことにゴミ箱のように邪魔なものを放り込んでしまうのです。

これって都合の悪いことを意識下へ隠してしまう、私たちのマインドの機能ととても似ているように感じてしまいます。

池の水は抜いてしまえば、そこに内包されていた全てが白日の元に晒されることになるのですが、マインドの場合はそう簡単にはいきません。

目に見えるものでもないし、まったくプライベートな領域のことなので、他人がそこに手を入れることはできません。

けれども、それを粛々と進めていくのが癒しなのです。癒しというのは、不都合なために隠してきた感情や思いの記憶、こうしたものに光を当てること。

そのことで不自由な生き方を自分に強いてしまった人生を、元に戻すことができるようになるのですね。

内面の静寂の存在に気づく

自分の内面、心が比較的ゆったりと静かな時もある一方で、反対にざわざわ騒がしい時もあります。

それ以外にも様々な状況を呈する自分の内面、そのどれもが自分の心で起こっていることだという認識がありますね。

では心自体というのはどんなものでしょうか?私のイメージでは、あらゆることが起きる容器のようなものだと。

つまり本当の自分の内面というのは、あらゆる精神的現象が起きる容器、場であるということ。

だから何も起きなければ、そこにはただ静寂だけが残るのです。その静寂、容器こそが私たちの本質なのだろうなと。

それなのに、いつもいつも何かを考えてばかりだったり、激しい感情の嵐に飲み込まれてしまえば、静寂は隠されてしまうのです。

それが忙しく生活している私たちの現実なのではないでしょうか?それでは、正気でいられるはずがありません。

一日数分でもいいので、心静かに座すことです。初めのうちは、どんな効果も感じられないかもしれません。

けれども、そのうち少しずつですが、内面の静寂という私たちの本質のフレーバーを感じられるようになるはずです。

どんな人の内面にも、共通する静寂が隠されています。少なくともそれを知るまでは、人生でどんな偉業を成し遂げたとしてもまだ中途半端だと理解することですね。

求めているのは永遠

いつの頃からなのか、私の人生観の根底にあるものがはっきりしたのですが、それは全ては一過性であるということです。

何かしらの試練がやってきていると思っても、いずれは終わる時が必ずやってくるということを見るのです。

どれほど楽しい時を過ごしていようと、これもいつまでも続くものではないということを知りつつ楽しむのです。

もちろん当たり前のことと言えばその通りなのですが、ただそのことを強く意識できるようになったということですね。

子供の頃から自分の中にあった思いというのは、なんであれ早く過ぎ去ればいいというものです。

いつまでも続いて欲しいと思ったことが正直ないのかもしれません。これは不思議なことだと自分でも感じるのですが。

この早く過ぎ去れ!という願望と、全ては一過性という思いは、どこかで繋がっていて、それはこの生が本物ではないと感じているからなのかもしれません。

凄く嬉しい体験をしているときに、一般的にこれが夢だったらずっと醒めずにいて欲しいと思うのかもしれませんが…。

私の場合はそれでもどんどん先へ進んで欲しいのです。そして終わって欲しいと願っているのかもしれません。

死にたいのではなく、終わりにしたいということです。なぜなら、死んでもまた次がやってくるという感覚を持っているからでしょうね。

物語が終われば、そこからは永遠がやってくるという感覚でしょうか。