昨日のブログでは、見られる側(思考)から見守る側(意識)へとシフトすることの大切さについて書きました。
なぜそれが大切なのかというと、見られる側(思考)としての自分はただの幻想であり、本当の自分は見守る側(意識)だからです。
そのことに気づかずに一生を終えていくのは、さすがにもったいないと思うわけです。見られる側(思考)は目的志向であり、そこからあらゆる苦悩が生まれるのです。
なぜなら、目的地が設定されてしまうと、そこに到達できない恐怖がやってくるし、目的地を目指さない罪人も生まれるのです。
ところが生にはどんな目的地もありません。生そのものが目的地なので、誰も失敗することもないのです。
私たちの本質である見守る側(意識)が目的志向ではないのは明らかですので、生の本質とも合致しているわけです。
目的志向は時間を必要とし、過去と未来という仮想空間へと動き出すことになって、実在する生から離れてしまうということにも気づくこと。
一方の見守る側(意識)としての私たちは、時間の中にはいません。ただ今この瞬間という生と共にあるのですね。
目的がないって、なんて軽やかなんでしょう~~~。なんだか訳もなく、うれしくなります。
本当にそうですねえ。おまけに、自分は見られる側ではなく、あくまでも見守る側だというのも、私としては途方もなく救われます。
見られる、というのは、他人の自我から評価とか分類されるという感じなのでしょうか。
あと、罪人って、私に、すごくフィットする言葉でした。
罪人にされないようにどこかでいつもびくびくするか、罪人を見つけてほっとするか、そのどちらかで、ずっと生きてきたんだな、と思いました。
表面ではそんな顔見せないようにして。
そうです、見られるというのは評価される対象という意味です。評価された後、善人なのか罪人なのかに分類もされ得るということですね。だからいつもビクビクしてしまうということです。けれども、本質は見られる存在ではないと気づくと、本当に安らかな気持ちになれますね。
そうですね。1日の終わりは、ぱたんと本を閉じるように、本当の方に戻って眠れるといいな、と思いました。安らか~~~~。