自我ど真ん中から抜ける

確か今から6年程も前のことになるのですが、当時新しく発売されたipadとapple penを購入して、遊びで絵を描いたり図面を描いたりしていたのです。

それ以来愛用しているipadですが、apple penの方は全くもって使わなくなってしまっていたのですが、最近またある用途で使いたくなったのです。

ようやく見つけ出していざ充電しようとしたところ、どうも壊れてしまっている模様。なんかそんな気がしていたのですが、まさか何もせずにいて壊れるなんてと…。

事務所隣のapple storeに持って行ったところ、やはり壊れていると。修理には三千円くらいかかるし、おまけに新宿まで持っていく必要があるとのこと。

新しく購入すると一万三千円くらいかかるらしい。え、どうしよう?持ち帰ってきてもう一度試してみたけれど、勝手に治るはずもなく。

修理するなら差額で1万円ほど浮くけれど、新宿まで行く労力を考えると?待てよ、自分の単価っていくらくらいだっけ?

ここで迷ってしまい、お得意のしばらく放置。それでようやく、よくあるどうしたものか迷うという定番の自我のモードに入っていたことに気づくのですね。

どちらがお得かを考えあぐねていることそのものが、エネルギーの無駄遣いなのです。事態を見守るモードに戻るのに少しの時間が必要でした。

一旦このモードに戻ることができると、損得の問題から解放されていくのが分かります。あとは、どうなるかを楽しみに待つのみです。

言葉の限界

若い頃には分からなかったのですが、多分一生は思いのほか短いのだろうということ。最近それをリアルに感じるようになりました。

自分にはまだまだ時間があるという思い込み、それが本当になくなってきたなあと分かるのですが、その実感を言葉などで伝えることはできません。

他にも言葉で伝えられることがとても少ない。特にこれは非常に大切なことだから何としても伝えたい、そう思うものほど伝えられないのです。

それもそのはず、言葉というのは思考であり、それは自我のものだからです。つまり言葉で伝えられる範囲というのは、そもそもが自我の範疇のものだけなのです。

自我が少しの間落ちていた時に一瞬で理解した、「時間はない」というあの感覚。どうやったって、言葉で説明などできない。

ブログでいつも言っている「全体性」にしても、その普遍性、あまねく存在する感覚なども絶対に伝えられません。

そもそも伝えられないものというのは、誰であれその内面に元々持っているものではないだろうかと考えています。

つまりは伝えることができないというよりも、伝える必要がないということ。各自が興味と熱意を持って、自らの内側へと入っていくこと。

方法はそれ以外にないのだろうなと思うのです。やり方はいたってシンプル。静かな時間を作って、ゆっくりと意識を内向きにしてただ在るようにするのです。

ただ在るというのは、過去にも未来にも行くことなく、欲を傍に置いて思考から離れているようにすることです。結果を期待せず、求めず。シンプルだけど難しいですね。

夢人生から目覚めるために

どれほど楽しい夢であろうと、あるいはもう二度と見たくないと思わずにはいられないような悪夢であろうと、いずれは目覚めることで終わりを迎えます。

ただ夢の中では、それが夢であるということにはほとんど気づくことがないし、そういう発想すらできない(つまり無意識)状態なのです。

目覚めて初めてただの夢だったと気づくところがミソですね。私たちの人生もこれとほぼ同じだと言えるのです。

どんな人であれいつかは必ず目覚めがやってくるのです。今回の人生では夢のまま終わったとしても、次の人生、そのまた次の人生という具合にずっと夢は人生を跨いで続くのです。

そしていつかはめでたく目覚めがやってくるということです。睡眠中の夢との違いは、目覚めた時には自我ではなくなるという点です。

この人生という夢の中では、私たちは自分のことを自我だと思い込んで疑うこともしません。だから一向に目覚める気配もしないのです。

けれども、夢人生の中で意識的である訓練を継続していくことで、目覚めた時のことを想像できるようになっていくはずです。

なぜなら目覚めるということは自分は自我ではなく、純粋な意識であったと気づくことだからですね。

自我という役柄を演じる

大学受験に失敗して浪人が決まった時に、予備校に通う決断と同時に俳優になる道はないかと思って、あるオーディションに写真を送ったことがありました。

今思えば若気の至りに過ぎないのですが、そのくらい俳優さんへの憧れみたいなものがあったということですね。

俳優というのは与えらえた役柄を演じ切るのが仕事。苦労も多いのだろうけれど、さまざまな人生を模擬的に体験できる魅力もあります。

名優といわれる人は、できるだけその役柄になりきることができるので、場合によっては本当の自分よりも役の人物のようになってしまうこともあると聞きます。

けれどももっとずば抜けてその役に入り込んでしまっている人がいます。誰だか分かりますか?それが全人類なのです。

私たちは誰もが自分の本質のことをすっかり忘れてしまい、与えられた人生の中心人物としての自分を生きているのです。

役柄を完璧に演じているという点では100点満点に違いありません。ただ残念なことに、その役から抜け出て来れずに死んでいくのです。

では自我という役柄を演じているということに気づくためには、一体どうしたらいいのか?それは自我との距離感を掴むことです。

つまりはできる限り意識的でいて、自我を見守る側にいる時間を長くすることです。自我との同化を外すにはそれしかないのでしょうね。

心が貧しいとは?

多くのものを所有して物理的には裕福であろうと、反対に心が貧しいままであれば人は幸せにはなれない、なんてことを言いますね。

前半は分かるのですが、心が貧しいとは一体どういうことでしょうか?もちろん比喩的な表現であることは確かです。

私の解釈は、心が貧しいとは「もっともっと…」という貪欲さ、強欲さのことではないかと思っています。

元々人間のマインドというのは、真に満たされるということがないのです。つまり、足りたいというのが生きる原動力となっているのです。

まだ手に入れられてないと思っているものを、もっともっとと際限なく求める一方で、すでに手にしたものには興味がないのです。

だからどれほどのものを所有できたとしても、マインドの不満、欠乏感が尽きることはないということです。

逆に表現すれば、いつもこのブログでお伝えしている通り、マインドは満たされてしまったら存続できなくなってしまうのです。

こうしたマインドの仕組みを深く理解することで、どこまでも求め続けてしまう残念な状態から、少しずつでも離れていくことができると考えています。

マインドが小さくなればなるほど、心は豊かになっていくということですね。

選択と受容

私たちのマインドにとって、命がかかっているくらい大切なことが究極二つあるのです。それは何だと思いますか?

存続するために絶対に必要なことは、「選択」し続けるということです。だからこそ私たちは日夜、選択をし続けて人生を生きているのです。

選択するということは、あれはいいけどこれはダメという具合に、物事を分離させることになるのです。

その分離こそがマインドの本性であり、思考の根っこにあるものです。マインドのベースは個人として周りと分離している自分がいるという思い込みです。

それが分離対象としての他人の存在をも生み出すわけです。この世界が個別のもので分離していると言うのは、全くの間違いです。

その一方で、マインドにとっての最大の敵は「受容」するということ。受容することは選択しないということでもあるからです。

受容し続けるならいずれは分離が消滅していってしまうからです。それはマインド(自我)の死を意味します。

その結果は全ては一つという状態を思い出すことになるのでしょうね。

常にマインドを見守る

もしもあなたが誰かの言葉に傷つけられたと感じたら、自分の内側を見てみることです。本当にその人があなたを傷つけたのかどうかを知るために。

あるいは、何かのドラマを見ていて悲しい気持ちになったとしたら、やっぱり自分の内側を見てドラマの内容が原因で悲しくなったのかどうかを確認することです。

外側で起きることはあなたの内面を揺さぶる「きっかけ」にはなっているかも知れませんが、本当の原因はあなたの内側にこそあるのです。

それは、ある言葉を投げかけられた時に人によって反応がまちまちである事実を見れば、一目瞭然なのです。

「あなたは◯◯だね」と言われて怒る人もいれば、悲しむ人もいます。怯える人がいれば、無反応な人もいるかも知れません。

どんな反応をするかは、その人の内面にこそその原因があるのです。改めて言われれば確かにそうだと思えるのですが、普段はすっかりそのことを忘れてしまっているのです。

そして外側の事象ばかりに気持ちが向かってしまい、それが原因で心が乱されたと勘違いしてしまうのですね。

1億円の宝くじが当選した時に喜びのあまりに絶叫するとしたら、それもあなたの内側にそうさせる原因があることは明白です。

もしも自分のマインドの反応を注意深く見る練習をしていれば、その原因となるものに気づけるようになるのではないかと思っています。

それはマインドをより深く理解することになるし、それによってどんな反応であれそれが小さくなっていくことに繋がるのではないかと思っています。

何にも興味を持てない

知識欲というのがあるということを知ったのは、確か中学生くらいの時だったと思うのですが、へえそんなものがあるのかあという程度でした。

勉強が性に合わない自分は知識欲などと言われても、全くピンとこなかったのです。ただ何かと物知りな友人などを見ると、ちょっとカッコいいなとは思っていました。

成長して大人になれば自分も知識欲が出てきて、人並みに色々なことを知るようになるのだろうと思って期待していたのですが、そうはなりませんでした。

簡単に言えば子供の時や学生の頃のままなのです。誰でも知っているような日本や世界の歴史にも興味を持てず、地理にも疎いままです。

テレビのクイズ番組などで一般常識的な問題が出て、出演者のみなさんが軽快に答えていくのを、みんなよく知ってるなあと思いながら観ているのです。

経済がどのような仕組みで回っているのかを知ろうと思ったこともあったのですが、続かないのです。

要するに興味がないからです。知識量が異常なほど少ないので、人との雑談というのがとても苦手です。

スポーツや行事にも関心がないし、だから冠婚葬祭にこの年齢になっても対応できないのです。一口で言うと使い物にならないと言うこと。

常識のなさというのは、興味のなさからくるものだと言うのを身をもって証明しているようなものですね。

多くの物事に対して興味を持てない私の自我はなかなか大変です。ただ唯一言えるのは、自我やマインドのことは興味があるので、この仕事の役に立ってよかったです。