老人ホームに入居している母親のところに面会に行ったら、いつも最初は「だれ?」って顔をされても、しばらくすれば自分の息子だと分かってくれていたのです。
ところが、昨日は私の名前を言うことはできるのですが、どうも顔をいくら見つめても誰だか分からない感じでした。
名前の記憶と顔の認識とは、脳の中で働く場所が違うのかもしれないですね。考えてみれば、私の今の顔は過去の顔とは違ってしまっているので、それも原因かも知れません。
それにしても、とうとう来たかと。きっと近い将来こういうことになるのだろうとは予想して、覚悟はしていたのですが。
どうも、現実になってみると、少々悲しいのです。もちろん、母親が肉体的にどこかが痛いとか、辛そうな姿を見せられるよりはマシです。
けれども、私の記憶の中ではついこの間までごく普通に母と息子の会話が成立していたはずなのに、こういう現実もやってくるのですね。
家内と一緒に童謡を歌ってもらったら、かなり覚えていてそこそこ一人でも歌えるのです。母親のそんな姿は私の記憶にはないので、ちょっとうるっときましたね。
その一方で、いつかはその痩せ細った身体を後にして、母親の本当の姿へと帰っていくのだろうと、肯定的に捉えることもできることがありがたいです。
私たちの本質は、生まれることも死ぬこともないということへの信頼を、より一層育てて行けたらいいなと思うのです。