昨日のブログで、究極の探求とは「自分とは誰か?」というものだということを書きましたが、ここには大きなトリックが潜んでいます。
それはなぜかというと、自我である私たちが自らの本質を探求しようとすれば、結局のところ自分自身が邪魔になってしまうからです。
真理に近づこうとすると、いつも自己矛盾というのか逆説的といえばいいのか、そう言ったものが顔を表すことになります。
不思議だなとつくづく思うのですが、理路整然としていて理屈で全てを解明できるものって、真理からはまだ遠いと思っていいくらいなのです。
話を元に戻して、自我が自分の本質をとことんまで探求していく時に、最後の最後でどうしてもその探求が自我によって邪魔されてしまうのです。
探求という行為そのものが、自我を活性化させ続けることによって、自我の背後に隠されている本質を見えなくしているからです。
つまり、ちょっと哀しい話になるのですが、自我である我々が自らの本質と出会うことは決してあり得ないということですね。
自我が最後の最後で探求を諦め切った時に、ようやく自我が消えていくのと入れ替わるようにして、初めて本当の自己が顔を出すのです。
そして、こっちこそが本当の自分だったと気づくことになるのでしょうね。自我という夢を見ていただけだと。