信念&思考&感情

私たち自我を自我として成立させている心の要素があるのですが、それは、次の三つがメインではないかと思われます。

それは、信念、思考、感情の三つです。信念というのは、もっとも根っこに君臨するその人の大元の考え方、生き方、あるいは感情に多大な影響を与えるものです。

自分自身に対する信念は、一般的には自己イメージと呼んだりもしますが、この自己イメージが良いものであれ悪いものであれ、とにかく頑なに信じ込んでいるわけです。

もちろん信念にはそれ以外にもたくさんあって、頑丈なルールや正しさ、社会的な情報なども含まれます。

そしてそうした下支えによって、その人特有の思考パターンやそれに関連した感情パターンが作られるわけです。

自分の思考パターン、思考のクセ、そうしたものに気づくことができたら、そこから逆に類推することでどういった信念を抱え込んでいるのかを知ることができるのです。

その連鎖として、そうした信念と思考パターンの組み合わせから作り出される感情についても知ることができるようになるわけです。

例えば、もしもあなたが頑張って自己実現することに大きな魅力を感じているとするなら、どうしたらそうした未来を手に入れられるかという思考が沢山、頭の中に沸き続けるはずです。

こうした思考パターンがあるのは、自己価値が低いという信念、自己イメージを持っている可能性が高いのです。

そして思惑が、期待通りにいかない時には、悲しみという感情が溢れかえる事になるのです。場合によっては、虚無感がやってくるかもしれません。

このようにして、自分の内側を深く見つめ直そうとするなら、全てのベースになっている信念に目を向けることです。

そして可能な限り、あらゆる信念に光を当てて白日の元に晒すことで、自分には「いらない」ということがはっきり分かれば、自然とそれらは落ちていくはずですね。

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私たちの意識だけが本物

この世界とは、一つの広大な空間とその中に表れる莫大な量のモノから成っていると考えることができるし、少なくとも私たち人間はそのように捉えているはずです。

つまり、空間と目に見える物質です。そしてどんな物質であれ、そのすべてが一過性のものでしかないのです。

この宇宙の中にある物質で、永遠に存在し続けるものは一つもありません。こうした特徴を真摯に捉えると、全てが真実ではないと知ることになるのです。

真実は、在るものは在り続けるし、ないものはないままです。生まれたり消滅したりしないのです。

ということは、私たちは真実ではない、偽物によって囲まれているし、生まれて死ぬ運命にある我々自身(自我と肉体)も真偽でいえば、偽物なのですね。

では、目には見えないものがあるとして、それについての真偽のほどはどうなのでしょうか?例えば、私たちの心とか情報などは如何に?

やはりそれらも消える運命にあるのだとすれば、偽物ということになりますね。ただし、私たちの本質である意識は違います。

瞑想していると、心の活動に代わって意識だけが拡大していくのが分かるのです。この意識が生まれたり消えたりするものではないと直感的に分かっている感じがします。

だとすると、この物質現実の世界の中にいる私たちが、唯一本物だと認識できるものは意識であり、自我を超えた「私」の存在こそがそれなのですね。

そのことを改めて静かに感じてみると、なかなか感慨深いものがありますよね。そして、日頃あまりにも目に見えるものたちに翻弄されてしまっているなと思うのです。

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「こだわり」を手放す?

昨年の7月より始まった、「マイホーム建て直し」プロジェクトがすべての設計・その他の作業が終わって、いよいよ今週末に最終打ち合わせとなりました。

ところが、この期に及んでハウスメーカーの営業さんから、私が希望していた床材の使用に関して、まだ本社からOKを貰えてないと言われたのです。

その床材を使いたいということは、最初の最初から希望を出していて、口約束とは言え、大丈夫ですという回答を頂いていたのに。

これって、軽〜い詐欺みたいなものじゃないの?と一人で憤慨しているのですが、ここへきて、自分の「こだわり」に対する審判が下されるのかなと。

要するに、お前の「こだわり」を手放しなさいと。ずっと夢にまで見ていたあの部屋のイメージが脆くも崩れ始めています。

きっと半年前だったら、冷たく激怒して営業マンを追求するはずなのですが、う〜んどうしようかなと思っているのです。

当初から、そのメーカーの標準として採用している床材を選んで、それを研磨すればいいのではという案も出されてはいたのです。

けれども、私はそこは譲れないとしてやってきたのです。せっかくの注文住宅で希望の床材を使えないというのは、どうしても納得できないと思っていたので。

この件、どうなることやら。その床材を使えるようになるのかどうかということと、もうひとつ私の反応がどうなるのかも見ものだなと思っています。

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諦めが早いことの是非

一度の人生で、何かを成し遂げることのできる人というのは、大抵が粘り腰というのか、何であれ諦めずに継続することができる人だと思うのです。

その真逆で、諦めの早いタイプの人もいるわけです。実は私こそがそのタイプだという自覚があるのです。

諦めが早いというのは、飽きっぽいということにも通ずるものがあって、熱し易く冷め易いなどというのは、そのまま自分のことを言われてるって思うのです。

そのくせ、本当に物事を諦めているのかというと、かなり怪しいのです。どういうことかというと、諦めたつもりになってはいても、実は本当には諦めがついていなかったりもするということ。

かなりみっともないことなのですが、もういいよ、諦めたよ!と口先では言ってはいても、どこかにまだ執着していたりするということ。

だからちょっとタチが悪いというのか、面倒くさい性格とも言えるかもしれませんね。だからと言って、私の場合は自己否定には繋げないのですが。

ただそんな諦めのいい私ですが、悪いことばかりではなくて利点もあったりするのです。それは、変化を受け入れやすい点ですね。

大学生の時に、パチンコにハマっていた時があったのですが、一つの台でずっと粘るというよりも、この台出ないなと感じたらあっさりと他の台に移っていけるのです。

要するに、一度決めたらここで頑張ってみるというよりも、淡々と次のチャンスに向けて台を変えていくことができるのです。

ということは、考えようによってはより多くのチャンスに巡り会う可能性が出てくるということです。

ただし、こうした私の性癖ですが、自分が好きでやっていることに関しては、上記のことは全く当てはまらないのです。

だから、15年近く毎日ブログを書き続けているのであって、こうしたことは諦めが早いとか飽きっぽい、という事とは全く関係ないことなのです。

いかに自分が気に入って好きなことをやることが、一番無理なく続けていけることなのかが、分かるというものですね。その場合は、当然どんな努力も不要です。 

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我が心の「ふしぎ発見!」

自分のマインドの中に、とても奇妙で不思議な回路があるなあと気づいていて。これは、はるか昔からずっとあるもので、すごく変な感じがするものです。

最近ではほとんど表に出てくることはないので、完全に忘れているのですが、ただふとしたことからそれを思い出すこともあったり。

例えば、自分の中に損をしたくないというかなり明確な思いがあって、そこから派生して損をすると自分が可哀想な状態になるわけです。

自分が可哀想だと、そこから今度は母親が可哀想というところへと繋がるのです。もっと正確に言うと、私が可哀想である状態を見た母親の気持ちを思うと、母親のことを可哀想に感じるということです。

そして、自分自身が可哀想な目に遭ったことよりも、そこから派生した母親の気持ちが可哀想ということの方が自分にとっては大きいことなのです。

これって、伝わりますかね?きっと、幼い頃に、自分の気持ちよりも母親の気持ちの方が大きくて、そっちが目立ってしまっていたのでしょう。

だから自分を可哀想な目に遭わせたくない原動力は、母親の気持ちをかばいたいというのが一番なわけです。

こうした不可思議な心の働きというのは、表面には出ないで隠されていることが多いのですが、意外に多くあるのかもしれないなと思っています。

皆さんはどうですか?自分の心にだけあるちょっと怪しい反応に気づいていたりするでしょうか?

たまには、自分の内面深くに入っていって、ゆっくりと「ふしぎ発見!」してみるのも面白いと思いますね。

自分と戦わない

昨年の9月ごろから自動演奏、自動鼻歌を止めようとして、3ヶ月くらいはほとんど音楽も聴かないようにしていたのです。

その後、強引に止めようとする作業は戦っているということに気づいて、一旦は止めようとする作業を辞めたのです。

もちろん、その大元にあるのは自動思考を停止して、シーンとした頭の中にしたいという気持ちがあったからなのです。

私の左脳では、いまだに自動演奏、自動思考が続いていますが、猛威を奮っているというほどではないのです。

自動思考を目の敵にするのは辞めたのですが、自動思考に対して意識的であったおかげで、瞑想の感触はかなり変化したようで。

それこそ思いもよらない副次効果があって、自分としてはそれなりに良かったと思います。でも、以下のoshoの言葉を知り、やっぱり自動思考はなんとかしたい。

『人は、内側の騒音を止めなければならない
外側の騒音はコントロールできない
また、それを止める必要もない
しかし、内側の騒音は止めることができる
そして、一度内側の騒音が止み、静寂が定まると
外側の騒音は問題にならなくなる
それを楽しみ、何の問題もなくその中で生きられるようになる

気がついたら、左脳からの明確な抵抗は気付けなくなっていて、どれほど瞑想をしてもそれに対する抵抗を感じることがなくなったようです。

昨年は、反逆罪で訴えてやろうかなと思ったくらいやられまくってしまったことを考えると、少し進化したのかなとも。

それとも、自分と戦わないという姿勢というのか、受容しつつも少しずつエネルギーを小さくするという、ある種の大人の対応がいいのかもしれません。

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世界は内側にあった!

私たちは、自分が暮らしているこの世界をその姿そのものに見ていると信じています。つまり、自分が見ている通りの世界が自分の外側に存在していると思っているのです。

けれども、実情は全くそんなことはありません。例えば、この世界は美しい彩りで溢れていますが、この世界には色というものは存在しないのです。

あるいは、音も存在しません。そんなはずはない、地震がきた時のゴーッという唸るような音、雷の轟音、暴風雨の時のあの凄まじい音があるじゃないかと。

そう思うかもしれませんが、あの音は空気の振動が私たちの鼓膜を振動させて、それを電気信号として脳が受け取ったものでしかないのです。

外側の世界にああいった音は存在しないのです。もっと言えば、この世界を見る時に、私たちは空間とその中に存在するモノという単位で見ているのです。

つまりは、全てが分離して存在しているというように勝手に判断した結果を見ているにすぎないのです。

この世界そのものには、どんな分離もありません。ちょうど、人工衛星から地球を見たときに、世界地図とは違って国境というものが存在しないと気づくのと同じです。

だから気づかなければならないことは、自分が見ている外側の世界とは自分が作り出した姿としての世界を見ているということです。

あなたの認識がなければ、世界がどんな様相を呈しているかは分からないのです。もっと表現を変えていえば、私たちは自分の内側に構築した世界を見ているということ。

だからもうそろそろ、外側を見ていると思っていた大勘違いに気づいて、内側に意識を向けることでしか、真実には出会えないと気づくことですね。

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瞑想の効能って?

先日とあるYouTubeチャンネルを見ていたら、瞑想について深掘りしている動画があったのですが、初めて聞くような瞑想の様々な効能についての内容でした。

例えば、瞑想をすると脳の形が変わってくるらしいです。そしていくつもの明確な効果が、アカデミックな研究によって明らかにされてきているようですね。

少し怪しいところでは、瞑想によって松果体が活性化するということも言われているようで、松果体が活性化すると第三の目と言われている部分が開くそうです。

そうなると、直感がやってくるようになったりして、いわゆる情報空間へのアクセスができるようになるのだとか。

真相は定かではないですが、瞑想についての情報を漁っていて、ネガティブなものに出会ったことがないですね。

私は個人的に、どんな人であれ瞑想を続けていくことで、確実に左脳の働きが収まっていくものと思っています。

頭の中を何かでいっぱいにして生きている人でも、1日のうちのほんの5分であれ頭の中を空っぽにする時間があると、それだけでエネルギーの重心が下へさがっていくのです。

私が義務教育の学校の教師だったなら、生徒たち全員に対して瞑想を習慣づけてもらうようにすると思うのです。

それ以上に日本の未来にとって重要なことって、あまりないのではないかと思ったりしているくらいです。

瞑想していて、自分とは誰でもなかったということを感じつつ、あらゆる責任から解放されて、意識の広がりを味わう瞬間が一番大切なことかもしれません。

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自我から自由になる

私たちは、誰もが自由でいたいと思っています。自由を欲していない人はいないし、実際に自由であると言ってもいいと思うのですね。

自由であるということは、自然であることと同値なのです。だからあなたがより自然体で生きていればそれだけ自由であるとも言えるのです。

けれども、不自由さを感じて生きている人もたくさんいるのです。それは、自分は不自由だと信じる自由すら許されているからです。

そうなると今度は本当に不自由になるのです。そして、自分を不自由にさせているのは、他でもない自分自身なのです。

クライアントさんとのセッションにおいて、どんなふうに生きてきたかを聞いて、それは奴隷の人生ですねと言わずにおれない場合もあるのです。

つまり私たちは、自分を奴隷状態にしておく自由すらあるということです。ただそんなことを言われて、ああ自由って素晴らしいと思う人もいません。

自分の自由を逆手にとって、あらゆる惨めな人生を現実化するのも自由ですが、それが本意であるとはとても言い難いのです。

なぜそんなことになってしまうかというと、自我が己の自由さ加減を乱用して好き放題にしているからですね。

だからこそ、本当の自由とは自我から自由になることだということなのです。そして、実は自我から自由になる自由さも本当は持ち合わせているということです。

そこに目覚めることが、今人類に求められていることではないかなと思うのです。

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役割分担をはっきりさせる

まず初めに、自分というのは、この物質領域にある自分、いわゆる自我のことですが、これと非物質領域にある自分の両方から成っていると思ってみてください。

非物質領域の自己と言うのは、ハイヤーマインドとかハイヤーセルフなどと呼ばれたりすることもあります。

つまりは、自分とは自我とハイヤーセルフの合体で出来上がっているのだとするのです。その二人三脚状態において、どのような役割分担が互いの正しい在り方なのかを知ることは重要です。

自我の役割とハイヤーセルフの役割が当然それぞれにあるに違いないからです。よく言われるのは、人生の青写真をつくっているのがハイヤーセルフであると。

そしてその大枠の中で、実際の物質領域で実体験を積んでいくのが我々である自我ということになるのだと。

そうとは知らずに、自我が人生の全てのリーダーシップをとって、全責任を負いつつコントロールしなければならないと考えているとしたら、かなりのお門違いというものです。

そんな重いものを背負って生きていくのなら、いずれは破綻してしまうのがオチですね。「人の仕事を取らない」というのは生きていく上でとても大切な教訓です。

自我とは比べることができないくらい高い波動のハイヤーセルフが受け持つ役割を、横取りしてはならないということです。

代わりに、実体験を積むという、自我の役割を楽しみながら淡々と生きていくことができたら、これほど軽やかな人生はないのではないかと思うのです。

だからと言って、人生を丸ごと全面的にハイヤーセルフにお任せして、自分は日々ずっと寝てればいいやということでもないはずです。

どんなことでも構わないので、興味があることや楽しそうなことを見つけては、恐れずにそれらを体験していくことで、非物質界にいる相棒(自分の片割れ)にプレゼントしてあげることができるのですね。

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