イメージできないことに怯まない

非二元の探求を進めていて気づくことなのですが、非二元をイメージすることができないということです。

自分も他の人も誰もいないってどういうことだろうとか、目に見えるものや触れることができるあらゆるものが現れでしかないと。

それは私たちが絶えず感じているこの感覚だったり、自分の感情や思考なども含めて全てが現れに過ぎないのだと。

こうしたことを自分の想像力をフル活動させたとしても、どうにもこうにもイメージすることができないのです。

要するに想像を絶するとはこのことなんだなと。最も、時間も空間も単なる概念でしかないということなので、当然と言えば当然なのですけど。

そうなると、もう世界というものが消え失せてしまうのですね。どんな世界?という言葉すらトンチンカンになってしまぅのです。

自分がイメージすることができないものを、どのようにして体感していくことができるようになるのか?

これまた想像を絶する感じがしてしまいますが、そんなことを考えても怯むだけなので、イメージせずにいるしかないのですね。

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視点も見る方向もない

これまで何度も直接の経験に留まる検証実験を繰り返した結果、経験主体という経験が起きることはなかった。つまり、経験をするものはいないということ。

経験は誰のものでもないということです。となると、例えば視覚においては、誰かが見るという経験は起きていないのです。

誰かが見るのではなく、視覚という経験がただ起きているということなのです。これがとても分かりづらいのです。

なぜなら、私たちは長いこと経験とその経験者というのを分け難い「対」として捉えてきたからなんですね。

けれども、厳密な検証をすればするほど、それがただの想像に過ぎなかったことが分かってしまうのです。

視覚について、「見る」ということは起きようがないことが判明してしまったわけです。そうなると、視点もないし、見る方向というものもないわけです。

つまり、どこから見ているということが言えなくなるし、どちらの方向を見ているかも意味をなさなくなってしまうのです。

私たちはいつも前方ばかり見えていて、後方は見えないと思っているのですが、それが幻想だったわけです。

方向という経験が決して起きないので、 前も後ろも、右も左も、上も下もないということになってしまうのです。

こうしたことにしっかり気づいていくことで、「こちらから向こうを見ている」というこれまでの感覚に変化が起きてくるかもしれませんね。 

非二元へと向かっている尺度

非二元の探究をしている人にとっては、すごく重要なことだと思うのですが、とにかく気づくだけではなくて、その証としての体感も欲しいのですね。

例えば、空間とは概念だったと気づいたところで、やっぱり空間という実体はないね、という体感ベースの気づきも伴って欲しいわけです。

自分なりに、二元から非二元へと変遷していく中で、その進度がどの程度なのかの指標になるものがあったら良いなと思ったのです。

それで、思いつくままに以下のようなものを考えてみました。興味がある人は是非参考にしてみてくださいね。

・自分が身体の中にいるという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が人間だという感覚がどのくらい減ったか?

・ここから向こうを見ているという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が動いている感覚がどのくらい減ったか?

・自分は無限の気づきだという感覚がどのくらい増えたか?

・自分は経験そのものだという感覚がどのくらい増えたか?

こうした体感ベースのものって、一度やって来たとしても放っておくと元の二元の感覚に戻ってしまうこともあるので、絶えず「気づきの視点に立つ」を実践することが大切なのですね。

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「直接の経験に留まる」とは?

非二元に気づいていくための検証・ワーク、つまり直接の経験に留まるということについて、色々とお伝えして来ました。

実際にそれがどんな意味を持っているのかについて書いていこうと思います。直接の経験に留まるとは、思考からやってくるどんな答えも使わないということ。

思考による記憶、概念、観念、イメージや想像などの情報を使ってしまうと、リアルな現実とはかけ離れた妄想の世界に入り込んでしまうのです。

例えば、「私がこの部屋のソファに腰掛けて、目の前にあるリンゴを見ている」という経験をしていると思っているとします。

日常的には、この経験は真実だと思っていますが、実はこの中のほとんどが思考によって作り上げられた経験なのです。以下に、例を挙げてみます。

・「この部屋」や「ソファ」あるいは「リンゴ」というのは、概念であり、そのような経験は起きていません。

・「腰掛けている」というのは、身体の状態を意味しており、そのような経験は起きていません。

・「目の前」というのは空間や位置を意味しており、そのような経験は起きていません。

・「私が〜〜見ている」という経験も起きていません。

リンゴを見るということだけでも直接の経験に留まると、色や形の経験だけが起きているということになるのです。

このように直接の経験に留まることができれば、非二元という現実が見えてくるということですね。

夢と非二元の話、再び

以前、非二元という現実を全く前提のない人に説明するときに、夢のようなものだと言えば分かり易いのではないかというお話をしました。

ただし、その場合、実際の夢と非二元の違いについても言及しました。夢の方は、その夢を見ている主体がいるわけです。

そして、その主体が目を覚ますと自動的にその夢は消えてしまいますが、目覚めた後はこの二元の世界の仮想的な現実が続いていくのですね。

では、非二元の場合はどうなるのか?個人という存在が元々いないので、目覚めた後の予想がつかないのです。

実際には、そうした経験がないので、はっきりしたことは言えないのですが、分かることだけを言ってみたいと思います。

一つは、身体の中に閉じ込められた意識、あるいは気づきというものが明らかな幻想だと気づいて、純粋な唯一無二の気づきが現れるのだろうなと。

そうなったら、個人的な苦しみというものが完全に消えてしまうはずです。もしくは、この世界が完全に消滅してしまうのかもしれません。

ここは謎なので、分かろうにも分かるようなことではないですね。だからそこは放置しておいて、とにかく非二元の気づきを深く浸透させていくことですね。

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個人よりも気づきの視点でいられたら

自分に一番関係していて、一番大きな問題である自我(個人という感覚)が幻想だということを見抜こうとして、ずっと生きて来たのです。

その方法は、ひとえに思考を止めること。絶えずやってくるうるさい思考を静かにして、それから完全に離れることができれば、自ずと自我は消えていくのだろうと。

そういう思いが常にあったので、ちょっとした空いた時間などがあると、すぐに目を閉じて簡易的な瞑想をするようにしていました。

それはそれで、心が落ち着いてゆったりとした気持ちにさせてもらえるので、とてもありがたいことではあったのです。

けれども、毎日瞑想をしていても、ほんの少しの変化も感じることはなかったのです。だから、自我から解放されることは到底叶わぬ夢なのかなと。

ところが、非二元の気づきが起きてからは、自我というか思考を目の敵にする必要がなかったということに気づいたのです。

思考はあっても全く問題ないのです。問題なのは、今この瞬間の思考というよりも、これまでに思考が作り上げた壮大な幻想、想像、信念、概念、観念などが問題なのです。

これに気づいたので、それらをそれとしてできる限り使わないように注意して生きることができれば、幻想は自ずと消えていくのだろうと。

ここを注意して、検証を続けていくことがとにかく大事なんだろうなと。個人としての視点ではなく、気づきの視点でいられたら、真実が現れるはずですね。

「私」がただ在る、に戻ってきた

これまでずっと長い間、この「私」という感覚が自我であり、それが幻想であることに気づくためにはどうしたらいいのだろうということが懸案事項だったのです。

非二元に気づいてからは、「私」だけではなくて、この世界がまったくこれまでとは違うという見方ができるようになったのですね。

けれども、この「私」がいるという感覚については、以前と何も変わることがなく、これはどうしたものかと思っていたのです。

ところが最近分かってきたことは、どうやらこの感覚はこのままでいいのかもしれないと。「私」がなくなることはないのだと。

ただし、それは個人としての「私」ではなくなるということなんですね。「私」がこの身体の中に閉じ込められているという感覚が消えるのだと。

つまり、「私」の感覚に局所性がなくなるということです。結局は、昔からずっと言っていた全体性の感覚でいいのだと。

それが純粋な気づきだということです。「私」がいるという感覚を無くそうと努力する必要はなかったのだと。

「私」がここにいるという感覚が薄れていって、「私」がただ在るになっていくだけなんですね。そこに戻ってきた感じがしています。

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経験には場所がない

直接の経験だけがリアルだということは、先日のブログにも書いたのですが、そこには場所というものが含まれないということについて書いてみます。

想像して見て欲しいのですが、今あなたは部屋の中でソファに腰掛けてくつろいでいるとします。

それが今この瞬間のあなたの体験なわけですが、そこに場所という情報が含まれているかをじっくりみてみるのです。

イヤイヤ、自分の部屋にいると分かっているのですから、そこは自分の家の一つの部屋であり、それは◯◯県であり、日本国だと分かるよと。

けれども、それは本当に今その瞬間の直接の体験としてあるものでしょうか?思考が差し出す答えを全て脇に置いてみてください。

すると、ここが自分の家の部屋だとか、◯◯県だとかといった情報はなくなってしまうということに気づけるでしょうか?

思考はこの瞬間の情報ではなく、記憶の中の情報を与えようとするだけなのです。結局、今この瞬間の経験には場所というものが含まれないと分かります。

経験には場所がないということが分かってしまいました。ということは、私の経験とかあなたの経験のように、分けることができないのですね。

つまり、あなたがこれまでに経験してきたと思い込んでいるどんな経験でも、それはあなたのプライベートな経験ではないということになります。

当然ですが、受け入れ難いですね。 

非二元 vs スピリチュアル

セラピストとして仕事をしていると、セッションでお伝えする内容がスピリチュアルだと思われることが多々あるのです。

それはきっと非科学的なことをお伝えすることが多いからだろうなと。起きることは自分の内面の投影だとか。

人間はマインドの奥にある潜在意識の部分に大きな影響を受けているとか、我々の本質は純粋な意識だとか。

けれども、こうしたことは本当はスピリチュアルではないんだけどなあと思っていました。私もスピリチュアルは大好きなのですけどね。

ただ、それをセッションの中で使うことはできないと思っているので、癒しのこととスピリチュアルを明確に分けていました。

そして最近は、非二元の探究の中に入っていて分かることは、非二元とスピリチュアルとはちょうど真反対だなと。

何が全く異なるのかというと、スピリチュアルの方はとにかく気持ちのいいことが優先されて、無限の想像力の中に入っていけるのです。

一方の非二元は、その反対にあらゆる想像を排除して、全くのリアルなものの中へと入っていくのです。

また、スピリチュアルはとにかく都合の良いことばかりが起きてくるといった夢のような世界を標榜するのですが、非二元は起きることはそのまま起きると。

そこも正反対に感じますね。もっと別の表現をすれば、スピリチュアルは夢の世界、非二元は現実そのものだなと。

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個人という幻想から抜け出る

長い間ずっと思い続けてきた、人生を賭けた懸案事項である、「個人という幻想から抜ける」という命題。

一年前までは、どうしたらいいのか分からずに、ただ瞑想をして思考を止めることだけを考えていました。

そしてとうとう非二元的な気づきによって、ようやく個人という幻想から抜け出す方法が分かってきました。

順番としては、この世界には独立した物質というものは存在しないということの気づき。これがとても大きかったのです。

そして、それは自分の身体についても同じことが言えるのだから、物質としての身体というものは存在しない。

ここで、個人として生きる上で非常に頼りにしている自分の身体の存在が消えてしまったので、個人でいることが怪しくなったのは当然です。

そして非二元によって、経験主体としての自分という存在を経験できないということに気づいたのですね。

経験は起きるのですが、その経験には時間や場所がないのです。そうなると、私の経験という言い方ができなくなるのです。

つまり、個別の経験というものは存在しないのです。ここまでくると、もう個人としての自分の存続はほぼ不可能になってきます。

残っているのは、ただの信念だけかもしれません。それが負け犬の遠吠えのように感じるようになりつつありますね。