「私」からすべてを剥ぎ取る

私たちが、これが自分だと思っているもののことを自己像といいます。私という人物像と言っても同じですね。どちらも像、つまりイメージだと言っているのです。

その「私」の正体を見破るためには、「私」が身に着けているものを身ぐるみ剥いでしまうしかありません。そして、裸になった「私」を見れば、それがまさしく「私」の正体であるわけです。

子供の頃に、「透明人間」というテレビの番組がありました。はっきりは覚えていないのですが、主人公の彼はいつも身体全体を包帯で巻いて、その上に帽子や服を身に着けて生活をしているのです。

ところが、何か事件が起きて、それを解決しなければならないとなった時に、包帯をすべて解いて彼からしたら全裸になって、つまり完全に透明な状態になって活躍するという物語だったのです。

「私」が所有しているもの、あるいは「私」が属性として持っているもの、そうしたものをすべて洗い出してそれら全部を脇に置いていくのです。

「私」からすべてを剥ぎ取って、身ぐるみ剥いで裸一貫にしてあげるのです。そのときに残ったものが「私」に違いないのですから。

そして一体何が残るのかと言えば、そこには何も残らないのです。それはまるで透明人間のようです。しかも、透明人間は単に見えないだけで触れることができます。

しかし、「私」はと言えば、見えないだけでなく、聞くことも触れることも全く知覚することができないばかりか、存在すらしていないのです。

「私」の正体とは、何も無いものだったということです。しかし、「私」というのは確かに在るわけで、そこには意識だけが残されています。

その意識も、私の意識と表現できるので、それも剥いでしまいましょう。そして残ったものは、表現できない純粋な意識、あるいは気づきであるとしか表現できないものです。

そこまでいくと、それは「私」というものではありません。ただ在る何か、それこそが本当の私たちの真実の姿であるということです。

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