「存在」の二つの意味

この世界が存在するという意味での「存在」とは、知覚のことを指します。つまり、目の前に机が「存在」するというのは、主体である自分が対象としての机を知覚しているということです。

その知覚が直接肉眼で見るという場合であろうと、何か別の方法で間接的に知るということであろうと、いずれにしても知覚には違いありません。

これは現代科学の根本とも言えるものです。科学では、観察者が対象を観察することがすべての前提だからです。

観察者が不在では、対象の状態を特定することができないというのが科学なのですが、このことはあまり知られていないかもしれませんね。

つまり、自分が知覚するということと切り離して、何かが客観的に存在するということは意味のないことだということになります。

この意味での「存在」というのは、間違いなく一過性のものであるということになります。なぜなら、知覚そのものが一過性のものであるからです。

けれども、「存在」にはもう一つの別の意味があります。それは、知覚と同値である存在とは全く異なるものとしてです。

それは、「気づいている」ということなのです。そこには、主体も対象もありません。ただ在るということに気づいているという意味での「存在」です。

そして、この意味での「存在」とは、時間や空間を越えたものであり、それこそが私たちの本質の姿であるとも言えるのです。

それは生まれることも死ぬこともできません。生死は時間の中でのみ起き得ることだからです。こうしたことを、理性で理解することは不可能です。

なぜなら、理解とは思考であり、思考も時間の中で起きて、そして消えていくものだからです。気づきのことを別の表現で言えば、純粋な意識であるとも言えます。

その純粋な意識だけになる瞬間というものは、もしかしたら誰でも経験しているのかもしれないですが、それは思考が停止した瞬間なので自覚できないのだと思います。

それにしても、なぜまた思考はどこからともなくやってくるのでしょうか?それはあたかも、自分が純粋な気づきとしての「存在」であることを、決して見破られないようにしているかのようですね。

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